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「ひととき」の特集紹介

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旅の月刊誌「ひととき」の特集の一部をお読みいただけます。
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#旅行・おでかけ

作家・澤田瞳子さんと、人に寄り添う美しき観音像を訪ねて|[特集]湖北、観音の里へ(滋賀県長浜市)

仏像巡りの前に訪れたい、高月観音の里歴史民俗資料館 林の間をするすると一直線に上るリフトを降りて、土の道を進むと、標高421メートルの賤ヶ岳の山頂に着いた。眼下には、濃い緑の山々と広大な琵琶湖。水面にはさざ波が立っている。竹生島は見えるが、対岸はかすんでいて見えない。古代の人々は「淡海(近江)」と呼んだ。右手には「鏡湖」といわれる余呉湖が青く輝いている。戦国時代、ここが激戦の場だったとは信じられないほど、静かで穏やかな風景だ。  琵琶湖の北、湖北地域は、畿内と東海、北陸を結

[大原美術館]日本初の西洋美術中心の私立美術館が生まれた背景|倉敷・津山ユニーク建築探訪特集

大原家から始まった町 歴史ある建物の中に身を置くと、ふわっと気持ちが豊かになる。角がとれた柱やペンキが塗り重ねられた壁。磨かれたガラス。扉や棚に施された小さなデザイン。どこか微笑ましく、あたたかい。 「それは昔の建物が、人の手で設計され、人の手で造られ、人の手で守られてきたからです」   上田恭嗣さんは、一級建築士・大学名誉教授として地元の学生たちに地域の建築や町づくりについて教えてきた。上田さんによると、機械化や規格化が進んだ現代と違い、明治・大正・昭和の建造物は、ひと

福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集

海運と商才と──南越前町 風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。  江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を

奈良、癒しのお湯5選|ととのうお湯めぐり

[入之波温泉]山鳩湯安時代開湯の入之波温泉にある。吉野杉の森とダム湖を望む露天が秘湯感を演出する温泉だ。毎分500リットルも自噴するお湯は濃い黄金色で、湯に含まれるカルシウムがケヤキで造られた湯船に堆積して、鍾乳洞のような質感に。宿泊も可能で、ジビエやアマゴを使った鍋もいただける [十津川温泉]神湯荘享保年間に発見されたと伝わる十津川温泉は、熊野古道の小辺路や大峯奥駈道の途中にある温泉で、多くの旅人や行商人がその足を休めた。旅館・神湯荘では、山々の景色を眺められる露天風呂や

【洞川温泉】かくも良き、レトロ温泉郷|奈良、ととのうお湯めぐり

湯の語源は斎であると言われている。斎は神聖であること、清浄であること、という意味を持つ。湯は身体を清潔にすると同時に罪、穢れを洗い清めるためのものであり、宗教性を帯び、古くから信仰と結びついている。奈良にも信仰と深く結びついた温泉がある。世界遺産に登録された地域にある吉野郡天川村の洞川温泉である。  天川村は奈良県中央部のやや南に位置し、洞川地区はその東の端にある。標高約820メートルの高地で村の東に大峯山系が連なる。山上ヶ岳や弥山は霊山として信仰の対象とされており、古くか

若冲と並ぶ“奇想の絵師”芦雪が南紀に残したもの(和歌山県串本町)

串本で芦雪に出会う無量寺境内にある「串本応挙芦雪館」には、別記事でご紹介した虎と龍の襖絵のほかにも芦雪作品を14点、常設展示しています。その中から厳選して3作品をご紹介いたします。 串本応挙芦雪館芦雪の襖絵をはじめ、「寺宝を大切にしたい」という思いを共有する、地域の人々の支援のもと設立された。重要文化財の襖絵などを保管する収蔵庫と展示室(写真)がある 1.布袋・雀・犬図3幅でひとつの場面を描く。中幅は、大きな袋の上に座る布袋が唐人人形を操っている。右幅には、袋からこぼれ出

「奇想の絵師」の才能が開花した地へ|南紀と長沢芦雪(和歌山県串本町)

串本町 本州最南端へ 江戸時代後期の天明の世、ひとりの絵師が本拠地である京都をあとにして紀伊半島の南部へと旅に出た。その名を長沢芦雪。写生を重視した円山派の祖、円山応挙の門弟である。  旅の目的は届け物だった。本州最南端の地、串本町の無量寺は地震による大津波で流失する悲運に遭ったが、およそ80年後に当時の住職だった愚海和尚が再建した。愚海は応挙と長年の親交があった。ずっと再建に奮闘する愚海に応挙はつねづね言っていた。 「あなたの寺院が完成したときは、前途を祝い必ずわたしの

【宮島】神住まう、島の祈り|歴史が生んだ佳景(前編)

神の島の祈りの歴史 「安芸の宮島」とも呼ばれる厳島は、古名を「いつきしま」という。「神を斎き祀る島」ということだ。  島そのものがご神体である。常緑の深い森に覆われた山々が峻厳にそそり立つこの島の姿を、古代、船で行き交う海の民は畏れ崇めた。神域を侵すなど思いもよらず、瀬戸を隔てた対岸から遥拝、あるいはわずかに岸辺に上がって祈りを捧げた。  島には地元のひとびとにそのように祀られた、たくさんの神がいた。なかでもよく知られる嚴島神社は、縁起によれば593(推古天皇元)年に創

【小田垣商店】黒豆一筋、300年の老舗(丹波篠山市)

 丹波篠山市には、老舗の黒豆専門店がある。1734(享保19)年、鋳物師の小田垣六左衛門が金物商として始めた小田垣商店は、丹波の黒豆の歴史に関わってきた。  1868(明治元)年、6代目店主となった小田垣はとが、金物商から種苗商に転業。黒大豆の種を農家に配り、栽培法を教えて、収穫された黒豆を生産者から直接仕入れ、俵に詰めて販売を始めた。1941(昭和16)年には、当時の兵庫県農事試験場によって、黒大豆の優れた品質と特性調査が行われ、「丹波黒」と品種名が定められた。ところが、

【丹波】土を見極め、土から生み出す古窯の里へ

 約800年の歴史を持つ丹波焼は、素朴な土の風合いが生きた焼き物です。丹波篠山市の中心街から南西に20キロ弱、立杭と呼ばれるエリアでは、今も50軒あまりの窯元が、個性と温かみあふれる器を焼いています。 歴史と焼き物の町、丹波篠山へ 仰ぎ見れば多紀連山の濃い緑と青い空。風が田畑を吹き抜け、水路ではシラサギがゆっくりと動きながら獲物を狙う。穏やかな山里の景色が広がる丹波篠山は、古くから京都への交通の要所として栄えた。  戦国期には、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めの舞台

花火は一瞬、思い出は一生(花火写真家・金武 武さん)

花火との出会いは17歳の夏だった。横浜の山下公園、蒸し暑い大混雑の中でズドンッと大きな花火が輝き、衝撃波で身体が揺さぶられた。 「何て凄いんだ!」 次々開く花火が心に焼き付いた。感動もしたが、同時にショックも受けた。美しく輝いた花火は跡形もなく消えてしまう。なんて儚いのだろう……。感動、ショック、そして涙。あの日から花火を追い掛ける人生が始まった。  コロナ禍以前は国内で年間4000回以上の花火大会が開催されていたという。日本は花火大国だ。そして今年、各地で花火大会が再

日本の花火のはじまりの地、愛知県三河地方・岡崎へ

にっぽんの夏。夏の花火。灼熱の太陽がようやく沈み、ほっと息をつく夜が来るころ、漆黒の空に花火が打ち上がる。ひとつ、ふたつ。そして無数に、次々と。鮮やかな光が花開き、破裂音がどんと身体を震わせる。日本に暮らす私たちにとって、花火とは懐かしい、夏の記憶そのものだ。  江戸時代から続く奉納花火 菅生神社おおらかに流れる乙川のほとりを散歩やジョギングを楽しむひとたちとすれ違いながら歩いていく。愛知県岡崎市は徳川家康の出生地だ。家康の生まれた岡崎城の城下町、そして東海道の宿場町として

【井波彫刻】次世代の彫刻家、田中孝明さん「目の眩む明かりではなく、軒先に下がる灯を発信していきたい」

 井波彫刻は欄間、というイメージを強く持っていればいるほど驚きが大きいのが、田中孝明さんの作品である。最初に目にしたのは、3体の女性像だった。細やかに匂い立つような小さな姿。それぞれ名がついていて、「たね」「みず」「ひかり」。田中さんは言う。 「観る方がその方なりの種子を見つけていただき、水を与え、光を浴びて芽を出していけるように、との願いです」  表面の滑らかさも鑿だけの技だ。サンドペーパーではどうしても質感が生まれない。糸のように細い刃で、囁くように削っていくのだろう

【井波彫刻】木槌の音が響く町、井波彫刻のみなもと(富山県)

綽如上人が開いた瑞泉寺井波には木彫刻の長い歴史が流れ、現在も100人をこえる数の人が制作に携わっているという。まさに日本を代表する木彫刻の聖地である。そのみなもとが八日町通りに導かれる古寺であると聞いてきた。真宗大谷派井波別院瑞泉寺だ。  山門が見えてきた。瑞泉寺は、砺波市と南砺市にまたがる高清水山系の北端である八乙女山を背にして立っている。  輪番(別院の最高責任者)の常本哲生さんに訪問のごあいさつをする。背筋の伸びた立派な体格であり、きわめて物腰の柔らかな高僧の常本さ