作家・澤田瞳子さんと、人に寄り添う美しき観音像を訪ねて|[特集]湖北、観音の里へ(滋賀県長浜市)
仏像巡りの前に訪れたい、高月観音の里歴史民俗資料館
林の間をするすると一直線に上るリフトを降りて、土の道を進むと、標高421メートルの賤ヶ岳の山頂に着いた。眼下には、濃い緑の山々と広大な琵琶湖。水面にはさざ波が立っている。竹生島は見えるが、対岸はかすんでいて見えない。古代の人々は「淡海(近江)」と呼んだ。右手には「鏡湖」といわれる余呉湖が青く輝いている。戦国時代、ここが激戦の場だったとは信じられないほど、静かで穏やかな風景だ。
琵琶湖の北、湖北地域は、畿内と東海、北陸を結ぶ交通の要衝で、古来、さまざまな文化・物資が行き交った。平安時代に入ると、各集落に神社、寺院が建立され、神像や仏像も盛んに作られた。中でも観音像は、個性も豊かで、広く人々の信心を集め、大切に守られてきた。長浜市高月町、木之本町を中心にした地域は、千年の時を経た貴重な観音像に出会える「観音の里」として知られる。
今回の旅人、作家の澤田瞳子さんは、大学時代、奈良仏教史を専攻、各地の仏像を訪ねてきた。案内をお願いした「高月観音の里歴史民俗資料館」館長の秀平文忠さんの大学のゼミの後輩でもある。
秀平さんと長浜の仏像との出会いは、学生時代、この地域の学術調査に参加したことだ。その際、仏像が人々にとってとても身近な存在であることに驚いたという。
「ゲートボールの賞状や写真が飾ってある集落の集会場の奥にお厨子があって、開けたらビックリ。素晴らしい平安仏がいらしたんです。調査のために横倒しにさせていただいている間、横で地元のおばあちゃんが『ありがたいことでございます』とずーっと手を合わせていました。それまで仏像は、美術工芸品や文化財であり、美術館や博物館で見るものと思っていましたが、土地の方々の暮らしの中にいらっしゃるのだと考えが変わりました」(秀平さん)
「私は京都に暮らしていますが、近年は観光化されて、信心と生活が切り離されていると感じることは多いです」(澤田さん)
資料館には、集落に伝わる仏像が由来とともに展示されている。奈良、平安、鎌倉、南北朝時代を経て江戸時代に至るまで、この地で大きさも形式もさまざまな仏像が作られてきたことがよくわかる。時代の流れの中で無住寺院や兼務住職となっても、仏像の管理は、集落の世話方や総代が交代で担ってきた。集落の人々は、宗旨に関係なく、門徒であり、氏子であり、世話方となってありがたい仏像を守り伝えてきたのだ。
「『うちの観音さん』を敬うことが、人と人とを結び付け、地域コミュニティーの求心力にもなっているんです。自治意識が高く、仏像の名称も、文化財指定上の宗教法人としての名前と字を用いた地元での通称、ふたつの名前で呼ばれます。渡岸寺観音堂の観音様がいらっしゃる場所も法人名は向源寺ですが、地元では渡岸寺という通称(字)です。ふたつの名は地域の人たちの思いの表れといえます」(秀平さん)
仏は、悟りを開いた「如来」を頂点として、「菩薩」「明王」「天部」の4つのグループに分けられる。観音菩薩は、その名を唱えれば、仏や僧侶、子どもなど33の姿に変化して現れ、苦しみを消し去ってくれる人に寄り添う仏として、庶民に人気が高い。その姿は、修行中の王侯貴族時代の釈迦を写したもので、本来は中性だが、男性的にも女性的にも表現される。観音信仰の広がりとともに、十一面観音や千手観音などが作られるようになった。
長浜の観音の特長は、表情や指先の形などの決まり事である「儀軌」に基づきつつ、作者の創意工夫が見られるところ。その中で最高傑作とされるのが渡岸寺観音堂(向源寺)の国宝・十一面観音立像である。
旅人=澤田瞳子
文=ペリー荻野
写真=佐々木香輔
──この続きは本誌でお読みになれます。澤田さんが学生時代から心ひかれてきた渡岸寺観音堂(向源寺)の国宝・十一面観音立像をはじめ、“観音の里”で人々に守られてきた観音像たちに会いに行きます。西の比叡山、北の白山信仰の影響を受けながら、高度な仏教文化が根付いた湖北で観音像を訪ねる旅、ぜひお楽しみください。
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