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誰もが才能を持っている

「すべての人に才能がある」と主張をすると、やたら美しい響きに聞こえるかもしれない。

ただ事実として、才能がない人間はいないと思っている。

・自分には何ひとつ才能がない
・どうすれば才能が見つかるのかわからない

悲観的な面持ちでこうした本音を語ることになる背景には、「才能=キラキラしたもの」という刷り込みがある。

才能という響きには、世の中から評価をされ、スポットライトを浴びるような派手なイメージが付きまとっているが、別にそういうわけじゃない。

たとえ世の中から批難をされようとも、誰も注目しなかろうとも、地味なイメージがあろうとも、才能は才能なのだ。

要するに、才能があるからと言ってハッピーなわけでも、成功が約束されているわけでもない。

才能は、誰もが生まれながらに持っている「装備」なのだ。

才能に対するポジティブイメージが強いため、あえて言わせてもらうのであれば。

この装備は「祝福」であると同時に「呪い」であると思っている。

選ぶこともできず、取り外すこともできない。
オン/オフのスイッチなんて、便利な機能もついていない。
自覚がないほど暴走しがちな、厄介なところもある。

人の才能を羨む気持ちは十二分にわかるのだが、自分のためを思うのであれば、いちはやく自らの才能と向き合うことをおすすめしたい。

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自覚なき才能がどれだけ厄介なのかを伝える上で、ひとつの例を紹介したい。

以前に「課題発見」という才能を持った依頼者と話をしたことがある。

一見すると、これは非常に役立つものだ。

依頼者は無自覚ながらも、「課題発見」という先天的な力に、「課題解決」という後天的な力を組み合わせており、周囲から高い評価を得ていた。

しかし、才能というのは基本的に持ち主の意思関係なくフルオートで発揮される。

才能という装備に人格をつけるのであれば、才能ちゃんにとって幸せなことは「課題を発見し続けること」なのである。

何が困ったことになったのかと言えば、才能ちゃんは暇になるたび、その能力を「持ち主」に向けていた。

あれができていない
これができていない
まだ足りていない

自分自身の課題を次々と発見していく才能ちゃんから、そう囁かれる日々を想像してもらえれば、依頼者の苦しみが見えてくるだろう。

結果的に、どれだけ周囲から認められようとも、自己否定が止められないアンバランスな状態ができあがっていた。

ここで注意すべきなのは、依頼者自身に課題があるわけでなく、才能ちゃんが課題を見つけたいという欲求を持っていることである。

どれだけ依頼者が課題をなくそうと努力したところで「課題発見」は止められない。

なぜなら、そういう仕様だからだ。

自覚なき才能の厄介さは、こういったところにある。

課題を見つけるたびに「だから自分はだめなんだ」と落ち込んでいてもキリがない。

はたから見たら怪しい一人芝居だとしても
「才能ちゃん、また課題を見つけてすごいね」「才能ちゃん、明日の仕事でいっぱい頼りにするから今はちょっと休憩していい?」
といった声がけをしていく方が、よっぽど有益なのだ。

もう一度言おう。
なぜなら、そういう仕様だからだ。

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結局のところ、世の中には「才能がある人」「才能がない人」がいるわけじゃない。

才能ちゃんの性質を理解した上で、良好な関係を築いている人が「才能がある」と言われているだけだ。


才能の有無という幻想に囚われることなく、才能ちゃんの存在を認めることから、始めてみて欲しい。





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