275 日常のファンタジー要素
レイ・ブラッドベリを読み始めた
『何かが道をやってくる』(レイ・ブラッドベリ著 大久保康雄訳)を読み始めている。ブラッドベリは遙か昔に1度、読んだか読もうとした。だが、読み続けることはできなかった。SFのファンだと自分では思っていたのに、ハードなSFも苦手ならファンタジーの強い作品も、あまり得意ではなかったのだ。それはたぶん、どちらの世界も自分と遠すぎて実感しにくかったからだろう。あるいは、その頃の自分はすでにファンタジーの中に生きていたので、必要を感じなかったのかもしれない。
いま書いたみたいに「ファンタジーの中に生きていた」と表現すると、なんだか「頭の中がお花畑」なイメージになるかもしれない。それが昔は好きじゃなかった。江戸川乱歩から横溝正史、大藪春彦、ハメット、チャンドラー、ヘミングウェイと読んでいた頃だろう。ハードボイルドへ傾倒すると、「頭の中が岩石」みたいになってしまうのかもしれない。冗談ですよ。
ところがいま『何かが道をやってくる』を読んでいて、自分でも「こういうのが楽しめるようになっているな」と気づいた。スティーブン・キングのファンだった時期にも、彼のファンタジー系には手を出せなかった。いまなら楽しめるかもしれない。なぜいまなのかはわからない。
ファンタジーの要素そのものは、日常にもある。そのことを意識しはじめたからかもしれない。
シリアスな話の中のファンタジー
タイムリープものなどドラマもファンタジー要素はとても多い。その中には私自身、ほとんどついていけないケースも多い。ようやく見終わったドラマ『君が獣になる前に』は、最後まで観て「いやあ、終わったなあ」とホッとするのであり、もちろん、何度も同じ時間を繰り返す仕掛けを通して訴えたいものがあることも理解しつつ、どうも自分としては苦手だった。お兄ぃ、苦手だよ。
ドラマ『燕は戻ってこない』は、とてもシリアスなドラマで、俳優陣の真摯な取り組みに好感が持てつつ、内容のエグさもなかなかのもので、どちらかといえば私の好きなホラー系に近い世界だ。そこで提示されているのはいまを生きる私たちに突きつけられた選択でもある。と同時に、このシリアスなドラマにもファンタジー要素はある。それはイラストレーターの妻の友人である春画を描く女性だ。彼女は古い病院を改造したアトリエに、謎の家政婦(?)とおじさん(いとうせいこう、当然植物ファン)と暮らしている。
いやあ、もうこの設定、あり得ないよなあ、と思いつつ、視聴者はあまりにもシビアなドラマの中で、このファンタジー要素にすがりついてしまう。そこに希望などないだろうと思いつつも、もしかしたら、と思ってしまう。まだドラマは最終回になっていないので、このファンタジー要素がどのようにエンディングに関わるのかわからないけれど、それは楽しみである。
そういう意味では、私たちの日常にもそれに近い要素はある。たとえば私は犬と暮らしているので、犬はもう完全にファンタジーである。なにしろ言葉は通じない。種としてまるで違う。一緒に暮らせる要素はゼロなのに、なぜか一緒に暮らしていて、お互いに依存している。これはもうファンタジーとしか言いようがない。
リアルなはずなのに、古いアルバムを見るのも、ちょっとしたファンタジーである。その当時を正確に思い出せないものだから、「こうだったかな」と適当に埋めていく。やがて「そんなはず、ないな」と自分でも気づく。それでも、一瞬のファンタジーに心が和む。あるいは潤う。あるいは暗くなる。いまと比較して考えてしまうのは人間だからしょうがない。それは「あの頃はよかった」か「あの頃に比べればいまはどれほどいいか」といった感慨につながっていく。スマホとネットがあるだけで圧倒的にいまの勝ち、と言いたいけれど、心情はそういうこととは別の価値判断をする。
しばらく(読むのが遅いから半年ぐらい?)、ブラッドベリを楽しむつもりだ。そういえば並行して読んでいる『源氏物語』もファンタジーといえばファンタジーだ。自分にいままでなかった世界を楽しんでいる。