144 美しさがわからなくなる
もっと美しいものを描きたい
このところ、おじさんの顔をスケッチして色をつけて遊んでみたのだが、「もっと美しいものを描きたい」とふと思ったのである。
そうだ、美しいものを描こう。なにを描けばいいのだろう?
いや待て、そもそも自分はなにを美しいと思うのだ?
最近、『美しい星』(三島由紀夫著)を読み始めている。『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(島田荘司著)を読み終えてしまったので、次の本。たまたま手の届くところに置いてあった。いまはない書店の紙で包まれていた。自分で買った本ではない。家族の誰かが買って置いてあったのだろう。
三島由紀夫の作品はいくつか読んでいる。一時、大晦日に年越しをするときに古典を読む、という自分勝手な遊びをしていて、そこで読み始めて少しハマった時があったのだ。
いかにも昭和な感覚に溢れた作品たちは、どこか、タバコの煙が天井付近に雲のように溜まっている喫茶店を思わせた。
そして、この『美しい星』(三島由紀夫著)は、タイトルに「美しい」とあるように、冒頭からとても細かな自然描写に満ちていて、夜が明けるまでUFOがやってくるのを待つ家族たちを描いていた。これはたぶん「美しい」のだろう。いや、そうに違いない。
そうは思うものの、私としてはそれほど美しいとも思えず。「きっとこれは美しいんだろう」と、まるでこっちが宇宙人になったかのような気分で読んでいたのである。
大河ドラマ『光る君へ』を毎週見ていて、その世界はたぶん「美しい」。とくに女性の十二単の色彩は飽きることがない。ドラマの展開以上に、女性たちが集っているシーンはなんとも言えない美しさを感じる。
かといって、それを自分で描きたいかといえば、そうではない。
つまり、夜明けの美しさ、自然の美しさ、雅な美しさなど、いろいろな美しさを頭ではわかっている気になっているのに、そのどれもが、自分の描きたい「美しさ」ではない。もっとも、技量がないので、そういうものを描くこともできないのだけど、どうせチャレンジするなら、自分が本気で「美しい」と思えるものを対象にしたい。
それが、わからない。
感性や経験によるものか?
チャットGPTに久しぶりに尋ねてみたのだが、いろいろな美の要素を書き連ねて最後に、こう締めていた。
「美しさは主観的なものであり、個々の感性や経験によって異なります。自分が何を美しいと感じるかを探求することは、個々の感性を深め、自己理解を深める上で意義深いことです。」
つまり、私は、そもそも「自分が何を美しいと感じるかを探求すること」が足りないのではないか。
あー、そういえば、そういう視点はなかったかもしれない。これまで生きてきて、見よう見まねでなんとかやってきて、自分の軸となる「美しさ」を持つことなく、いまのいままで生きていたのである。
もちろん、絵を習っていなかったこともあるし、美術にそれほど大きな関心があったわけではなかったので、それはもう、仕方が無いことだろう。
さらに、「感性を深め、自己理解を深める上で意義深い」と言われてしまうと、いまさらだけど、そういう日常に移行した方がいいのかな、と思いはじめている。
写真に夢中だった時代。ちょうどオートフォーカスの一眼レフが出始めたころにEOSを購入していっぱい写真を撮っている。そのとき、自分なりの「美」を感じてはいた。それが写真に定着することはまずなく、なかなか思うようにいかないことは実感できた。何百枚と撮影しても、凡庸である。もっと美しい写真が撮りたいと願っていた。
そうこうするうちに、フィルムのカメラからデジタルへ移行。携帯電話にカメラがついて、いまはスマホで撮影する時代。
やっぱり「美しさ」が大事なのに、どちらかといえば「おもしろさ」で写真を撮っていた。趣といえばカッコはいいけれど、要するに自分でおもしろいと思える構図や対象を撮るのである。
このnoteでは、一枚の写真を少しずつずらしてタイトルに入れている。これはnoteの仕様で横長の写真になってしまうからで、だったらちょっとずつタテにずらしてみたらどうか、とやってみているのだ。
これは「美」というよりは「おもしろさ」、ちょっとした「趣向」に過ぎない。
おもしろさから美しさへ
つまり、これからは、おもしろさよりも美しさを重視して、写真を撮ったりイタズラ書きの絵を描いたりするべきなのだろう。
それが、「感性を深め、自己理解を深める上で意義深い」のだとすれば、やってもいい。
そして、また冒頭に戻るのである。
「美しいものを描こう。なにを描けばいいのだろう?」
まったく思いつかない。
こういうものは、思いつくというよりは、出会うものかもしれないので、出会いを増やすべきかもしれない。たとえば高齢者やインバウンドで大混雑するのを敬遠して遠ざかっている美術館へ行ってみるべきか? ああ、なんだか面倒だな、と感じてしまう。
上野公園は、美術の宝庫である。芸大もある。そこへ、歩いて行ける距離に住んでいる(基本、江戸の町はその気になればどこへでも歩いて行けるのであるけれど)。
いやあ、困ったな。というか、これはむしろ人生の大きなテーマなのかもしれないし、恐らく一定数の人たちは、物心ついたときから、そっちの生き方を選択しているのだろうから、そういう人たちには「なにをいまさら」とか「バカなことを言うな」と言われるとは思うけれど。
さて、どうしよう。To be,ore not to beである。