「神楽坂オーバーグラウンド:ポンコツ探偵と支配する女」第5話
第5話 父権を振りかざす親の執念
1. 父の思惑とマリの困惑
「いっときでも娘の人生を預かるからには、佐伯さんにもそれ相応の覚悟がほしいのです」
親の愛情とはここまで重く深いものだろうか。
いい年して独り身の俺には想像もつかないが、正信のそれは行きすぎな気がする。
そう思っていたら、話は俺のライター生命だけにとどまらなかった。
正信は、マリが助手を辞めたあかつきには、後継ぎとして婿養子を迎え入れたいという。
「マリももう30歳だろう、そろそろ身を固めてもいいころじゃないか」
腑に落ちた。
それが正信の本心だったのか……。
ゆくゆくはその婿養子を社長に据えるつもりなのだろう。
思う存分に父権を振りかざしてきたではないか。
俺のライター生命なんぞ、ただのオマケである。
マリは両手を顔の前でぱっと開き、口を大きく開け、目を見開いていた。
驚いたときに現れる昭和なリアクションである。
そこまでのことを正信が考えていたとは、思いもよらなかったのだろう。
なるほど、ライター業に関心があったのは確かにマリの本心だったに違いない。
ただ、父親の呪縛から解き放たれなければ「新たな自分の人生は見い出」せないようなことを言っていたのは、本人も自覚していない無意識な心の叫びだったといえる。
これは……壮絶な親子喧嘩に巻き込まれてしまった。
マリは「佐伯さんならできる」と言う。
正信は「できなければ婿を取れ」と迫る。
もはや俺に選択肢はないようだ。
あとは虚しく2人のやり取りを聞くばかりであった……。
会社を辞したあと、マリと少しだけ話をしたが、俺はもうくたくたである。
「トキ、本当にごめんね。ここまでの話になるとは思ってなかった」
「しかしどうしたものか。ライターを廃業したら謎かけ師にでもなるしかないな」
彼女も相当ショックだったことだろう。
今日はいったんゆっくりして、これからのことはこれから考えたい。
とりあえず俺は事務所に戻ることにした。
しかし「常に、いかなるときも、どこにいようとも、マリを嫌な気持ちにさせないこと」とは、俺にとって可能なのか?
これはいつまで有効なのだろうか?
よくよく考えてみれば無茶苦茶な話である。
どうにもらちが明かないので、京極夏彦の「姑獲鳥の夏」をカバンから取り出す。
現実逃避といって差し支えない。
「だいたいこの世の中には、あるべくしてあるものしかないし、起こるべくして起こることしか起こらないのだ」
いま自分が陥っている出来事も、あるべくして起こっているのだろうか。
「自分達の知っている、ほんの僅かな常識だの経験だのの範疇で宇宙の凡てを解ったような勘違いをしているから、ちょっと常識に外れたことや経験したことがない事件に出くわすと、皆口を揃えてヤレ不思議だの、ソレ奇態だのと騒ぐことになる」
なんだか京極堂の言葉が身に染みる。
このような境地に立ってみたいものだが、今の俺の心境とはほど遠い。
とりあえずマリとは、どこかで食事しながら話し合うことになった。
2. イタリア料理店での作戦会議
待ち合わせ場所は前回と同じく毘沙門天 善國寺の前にした。
やや風が強いものの、気候がおだやかである。
今回の行く先は隠れ家風のイタリア料理店だ。
現地で直接合流してもよかったが、一緒に神楽坂の石畳を歩いてみるのも悪くない。
やや遠回りしながらでも、気晴らしに神楽坂の雰囲気を味わってもらいたく思ったのだ。
「ごめんトキ、待たせちゃったかな?」
マリがやってきた。
俺の「姑獲鳥の夏」を目にすると、笑みがこぼれた。
「本当に探偵が好きなんだね」
神楽坂の裏路地にあるそのイタリアンは、道を知らないとなかなか辿り着けない。
マリはその道中を好奇心をあらわにきょろきょろしながら楽しんでいるようだ。
「これ、どうやって帰ったらいいかわからなくなるね」
「そうだな、でも行き止まりは少ないから、適当に歩いていればたいてい大通りに出られる」
古民家風の家屋が見えてきた。
イタリアンらしからぬ佇まいだけでなく、珍しく靴を脱いで店内に入る様式になっている。
スリッパに履き替える。
中はぶちぬきで広々としており、奥に厨房が配されている。
ソファ席やテーブル席もあるが、今回はカウンター席に案内された。
「おしゃれだー」
「たまにはこういうところに来るのもおもしろいな」
さっそくメニューを眺めるが、俺はワインがよくわからない。
とりあえずグラスの泡をチョイスしてみることにする。
マリはというと、相変わらずグレープフルーツサワーとのことである。
マリはメニューをすみずみまで目を通している。
グランドメニューのほかにもおすすめメニューが豊富で、これはマリでなくとも迷うだろう。
どれも美味しそうに見える。
3. ぎこちない時間は続かない
「マリさん、食べたいものはお決まりでしょうか?」
「どうしたの、その口調は。気持ち悪い」
「いや、いつものため口で話しかけて気分を害されますと、ライター廃業ですから」
「いつもの調子でいいよ。いまのしゃべり方のほうが不快」
「あ、不快な思いをさせてしまった。これで俺はライター廃業だ」
「そうね、廃業だね」
2人で笑い出す。
どだい無理な話なのだ。
俺も一緒にメニューを眺める。
「カツオのカツレツ」がおいしそうだ。
「佐賀牛のステーキ」もある。
「締めのパスタはシェアできるといいね」
注文した料理が次々と運ばれてくる。
そのたびにマリが取り分けてくれるのだが、俺はどうにも気分が落ち着かない。
「マリさん自ら取り分けてくれるとは。いつも助かるよ、ありがとう」
「だから、そういうのやめてって言っているでしょ」
俺のライター生命がかかっているのだ。
自然と身が引き締まり、言葉遣いも過剰な丁寧さを帯びてしまう。
このままではお互い疲弊するだけなので、作戦会議に移ることにした。
「まずは俺たちなりの『着地点』を定めなければいけないと思う」
「着地点?」
「お互いどのような状態になるのが最低限幸せなのか、その目標を定めておいたほうがいいと思うんだ」
俺の着地点は簡単で、ライター廃業にならないことが最低限の目指すところである。
マリはどうだろう?
ライターになることなのか、ライターの助手を続けられればいいのか、婿養子を取るはめに陥らなければいいのか……。
「わたしはライターの助手を続けられたらいいな。婿養子の話はもう論外だしね」
よし、では2人でそうなるためにはどうすればいいのか考えるとしよう。
やはり久住正信が前言を引っ込めてくれるのが一番手っ取り早いのだが……。
「しかしマリのお父様ってなんであんなに強引なんだ」
「そうだね。ライター廃業だとか婿養子だとか、あそこまで考えているなんて思いもしなかった。もしわかっていたら……」
わかっていたら、どうだったというんだろう?
ふと何かマリのこれまで見たことのない側面が垣間見えた気がした。
「トキっていろいろな会社のお偉いさんにインタビューしているでしょ。皆あのような感じなの?」
「先日のお父様との取材もそうだが、ビジネス書のインタビューは何かを暴くのが趣旨ではなく、『いかにしてビジネスを成功させたか』を深掘りするのが目的なんだ。妙なところをほじくったり詮索したりするようなことは基本的にしない。だから、あそこまで本性むき出しな経営者は見たことがないな」
「なんか、トキに迷惑かけちゃったね」
「そういうことは言わないでくれ。マリに悲しい思いをさせて廃業になるのは俺のほうなのだから」
マリの怒りが爆発した。
「それだとわたしも身動きとれないじゃない! 喜怒哀楽を自由に表現して何が悪いのよ!」
マリを怒らせてしまった……いや、怒らせるのは別にかまわないのか。
でも気分を害させてしまった。
「もういやだー、こんなのー」
今度は悲しい思いをさせてしまったようだ。
これでは着地点も見えてこない。
しかしマリの父親は、俺たちを監視していたりするのだろうか。
マリが不快な思いをしている様子が見つかったら、それでおしまいなのである。
周囲を見わたすが、それらしい客はいないようだ。
それにしてもなんとかマリの父親に、ライターの廃業だとか婿養子だとかの話を撤回してもらう方法を考えたい。
マリが楽しくなさそうに言う。
「いま、わたし謎かけを思いついたよ」
「俺はそういう気分ではないのだが」
「わたくしマリとかけまして、杉の花粉と解きます」
「ほう……その心は?」
「その心は……いずれ過ぎ(杉)去るでしょう」
その日以来、マリは姿を消してしまった。
一枚のメモを残して。
4. 残されたメモと行方知れずのマリ
マリが残したメモは、このような暗号文だった。
メモにはタヌキのイラストが描かれている。
「た抜き」か……小学生並みのなぞなぞに脱力した。
俺は子ども扱いされているのではないか。
要はこういうことらしいが、このまま放っておいていいものでもないだろう。
メッセージを送ったり、メールを送信したり、電話をかけてみたりしたものの、マリからは一向に反応がない。
思い切ってマリの会社にも電話をかけてみたが、休暇をとっているとのことである。
どうやら自宅にも帰っていないようだ。
マリの父親はこの状況をどのように認識しているのだろうか。
いずれにせよマリがマリなりに考えて、着地点を目指した結果なのだ。
せめてお互い近くにいなければ、俺がマリに嫌な思いをさせる機会は生まれない。
そしてもうひとつ。
俺が神楽坂の事務所に断固として居座り続けることが大事であるという点、これだけははっきりしている。
それこそが、マリが俺の助手であり続けるための条件なのだから……。
などと思って過ごしていたら、何事もなく1カ月以上が過ぎてしまっていた。
しかしマリのいない事務所はがらんどうである。
謎かけをする相手もいなくなってしまった。
なんだかつまらない。
書くべき原稿はたまってきているが、何も手を付ける気が起こらないので、スヤマにメッセージを送ってみることにした。
「久しぶりに飲みませんか?」
「おお、いいよー」
「今週だったら金曜日が空いています」
「オッケー金曜日ね」
「よろしくお願いいたします」
「はーい」
やり取りがとてもスムーズである。
スヤマは牛込神楽坂駅の近くに住んでいるので、時間さえ合えばすぐにやって来られるのだ。
おかげで誘いやすい。
5. 「まあ心配しなくていい」とスヤマ
「いまの状況がいいとは言えないけど、マリが行方をくらましたのは、ある意味おもしろいやり方かもな」
スヤマに事の顛末を聞いてもらった反応である。
彼はなんでもおもしろがる。
「しかしライター廃業とか婿入りの話までは想定していませんでした」
「そりゃそうだ」
「実際のところマリは大丈夫なんでしょうかね」
「彼女はまあ心配しなくていいだろう。お金持ちなんだしホテルとかどこでも泊まるあてはある」
「確かにそうです」
「それにしてもタヌキの謎解きは笑えるな。おまえ、絶対に馬鹿にされてるよ。あはは」
「あれは確かに。いったいどういうつもりなんだろう」
いまは何も身動きが取れず、膠着状態である。
お互い目指す着地点には辿り着けていないものの、まだ見失ってはいないはずなのだ。
せめて連絡が取れればな……。
食事を食べてビールをたらふく飲んでいたら、もう深夜である。
突然、マリからメッセージが来た。
いま事務所にいるから戻ってきてほしいとのことである。
急激な展開に驚いたが、俺とスヤマは会計もそこそこに店を出る。
よかった、戻ってきてくれたんだという嬉しさと共に。
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