昔からあったサードプレイス
Vol 16 お寺 住職 70代
皆さんは、これまでの人生で、お寺やお坊さんとの出会いがありましたか?
日本では、他人の葬儀の際にお坊さんの読経を聞くのがお坊さんとの出会いと言えるでしょう。
5年前、私は豊田市の山奥にある平勝寺の住職である佐藤一道さんを取材したことがあります。
中国の歴史や文化に親しみ、深く理解し、日本人に中国を理解させようとする活動に尽力されていることから、私と映像制作の仲間で、平勝寺と佐藤住職を紹介するショートドキュメントを制作しました。その作品は受賞しました。
また、佐藤さんの住職としての物語を、私はいくつかの記事で紹介しました。(文末にある中国語バージョン記事のリンクご参照)
少し前に佐藤住職と再会する機会があり、私は、今年からサードプレイスの人や出来事について取材・執筆を始めたことを報告しました。 最近の私は、人に会った時の癖で、「サードプレイスはありますか?」と佐藤住職に聞くと、「私は趣味のようなことがないんです」と少し残念そうに答えられました。私は、その後、質問した自分の無知と無礼を恥じました。
この記事では、お坊さんの日常生活の視点から、佐藤住職と地元住民の「サードプレイス」を見ていきます。
お寺の住職の仕事
僧侶の多くは、釈尊の意志を実践する者としてお寺を住まいとし、大衆に法を広める一方、日々修行する一人の仏教徒でもあります。佐藤住職の仕事は主に2つであり、多くの人々に仏教の教えを説くことと、葬儀をはじめ各種法事で読経し、故人を弔うことです。
葬儀をおこなう
日本では仏式葬儀が伝統的な通過儀礼とされ、葬儀の9割が仏式だそうです。お通夜と葬儀、そして初七日から七七日までの各儀式において、僧侶は現世から来世への導師となります。故人を送る一連の儀式を通して、遺族は導師と一緒に故人があの世に無事に行けるように祈るのです。
葬儀は大切な人がいなくなったとき、心の整理とお別れの時間で、一つひとつの法要をクリアしながら、遺族は事実を少しずつ受け止め、49日目に大切な人との別れを迎えます。法要事の前後には、佐藤さんは遺族と話し合いの時間を設け、彼らに寄り添い、遺族の嘆きや不安に耳を傾けます。これらの儀式と時間の経過で残された人を癒す効果をもたらします。
「残された人がこの先を生きていくために必要な儀式だ」と佐藤さんは言います。
仏の教えを人々に伝える
仏の教えを人々に伝えることは、僧侶の大切な仕事です。
佐藤住職は、お寺で定期的に講演会を開いたり、読経、坐禅などの行事をします。よそからの講演依頼も少なくありません。参加者は仏教の世界観を理解し、自分の心の修行に向き合い、自分なりの人生の意味や過ごし方を見出すことを学んでいきます。
住職の日常
住職の日常生活も修行の一環です。
朝早起きして、お寺の内外を掃除し、朝、本堂と観音堂へお参りは日々のお勤めです。お寺の維持・管理や、畑で自給自足ための農作物を栽培する労働は体力的に厳しい仕事です。 特に、嵐の後の寺の境内の泥や水の清掃、山から折れた木の撤去、倒れた道具の片付けは大変な作業です。
日中は、法事や法要の事務処理作業をしたり、打ち合わせや会合に出かけたりします。仏教史や寺院史の研究など、勉強や自習の時間を確保し、仏教の教えを深めることも大切な仕事のひとつです。
人の死は事前に予約することができず、人が亡くなったという連絡が入ると、佐藤さんは葬儀のための一連の儀式準備をしなければなりません。夕方は通夜会場へ、告別式→火葬→葬儀の一連の流れで丸一日かかることも一般的です。
我々の生活とは対照的に、「死者が一番大事」というスケジュールと、一年中定休日がない、普段の仕事と休みの境界がはっきりできないということは、お寺の住職の生活スタイルです。世俗の祭日がどうであれ、住職にとっては不変の一日なのです。
地域の人々のサードプレイス
お寺は、住職の生きる場所であり、地域の老若男女が集い、身分の差別もなく訪れるところです。昔、お寺は地域の子供に読み書きやそろばんなど勉強を教える役割を担っていましたし、子どもたちの遊び場所でもありました。
そして大人になると、不安や無力、孤独を感じたとき、仏陀を礼拝し、瞑想にふけり、尊敬する僧侶に人生の困惑について助言を求めるためにお寺を訪れました。
このようにお寺の僧侶になる人は、学問のみならず人間としても優れ尊敬される存在で、そのため、お寺は人々のストレスを解消し、不安を軽減し、癒しを与えるための場所でもあります。
過去長い間、お寺は、地域に住む人にとっては心の拠りどころでした。
今は、お寺が住職と地域の人々と交流の場であり、地域に根ざす公共施設的な役割もあります。法事や仏教活動のために人が集まってきますが、生活の場と職場以外のいつでも気軽に訪ねる場所でもあります。
佐藤住職が毎月「両忘」注①という寺報を発行し、村の全世帯に送ります。お寺と村、お寺と外部との間の出来事を紹介したり、寺が毎月行う仏教活動の日程を村人に伝えていたりするもので、寺と住民のコンミュニケーションのツールとしています。30年余りが過ぎ、「両忘」は400号を超え、平勝寺と住民をつなぐ情報パイプになりました。
ここまで書いて、私はふと、この寺がまさに「サードプレイス」であることに気がつきました。
ここでは、村人たちが悲しみを解き放ち、故人を偲び、礼拝や読経、瞑想を通して心の平穏を得るのです。お寺の文化、慣習及び修行の中には、伝統的な原体験に立ち返るものがあります。人々が自分の内なるニーズや人生の意味に気づき、より良い選択をするために自分のライフスタイルや目標を再確認できるようなります。
古来より寺が担ってきた役割は、今も変わっていません。 佐藤住職には個人的な「サードプレイス」はありませんが、彼が運営している平勝寺は、地元の人々にとって歴史があり、安全で居心地の良い「サードプレイス」なのではないでしょうか?
日本語添削:佐藤一道
続き……
本文の中国語バージョン