絆応援団|ハニボンズ:ハニカム構造の丈夫でくずれない絆応援団があれば…
絆応援団[1]自己紹介&noteきっかけ
🌳 ハニボンズ honeycomb bonds
絆ってなんだろう?
ありがたいことに、わたしには絆がたくさんある。
スクラムを組んで崩れない絆応援団
ちょっと難しい言い回しになるけれど、ハニカム構造の多次元かつ高次元に空間充填された多面体で支えられている気がするのです。
そうして生き、生かされてきたという実感がふつふつと。
周りのたいせつな絆たちは、ハニーカムボンズ
◇◇◇ ハニカム構造の絆たち ◇◇◇
造語ですが、略して可愛く、ハニボンズとよぼうかな
♡♡♡ 人間は 周りのとても大事な かけがえのないものに
支えられていると思いませんか ♡♡♡
自分の「エコマップ(つながり図)」を書いてみたら、
もうスゴイことに!こんなにもいっぱい広がっているのだ!
多くの気づきをくださり 守り育ててくれた わたしの絆たち
「ここをたずねてくださったあなたも 大事なハニボンズです」
ハニボンズに 心から感謝をこめて
🌳 ものを語り ものを書く ふみだす
きんもくせい と申します。
たいせつな家族の命を救ってくれた木から、名まえをもらいました。
その話は きっといつかこのnoteにも刻みます。
ホイットマンの詩が好きです そっと気持ちに添ってくれる
自分のまわりに見えた景色やできごとは、体験という宝物
正しいかどうか なんて きっとわからない
体験したこと その時に思ったことを伝えることを始めたい
思いつくまま つれづれに
だれかに自分のことを 聴いてもらう
だれかのことを 聴かせてもらう ただ、ありのままに
そんなことが、何にも替えがたいと、今だからこそ強く思うのです。
どんな時であっても「みんなちがって みんないい」
オリジナルの支えが要るはず! ずーっと長いこと、
それって何だろう?と考える日々をすごしていた。
We are Buddies
このnoteを書きはじめようと決心したのには、大きなきっかけがある。
対等で自然なふれあいのなか、子どもも大人も ありのままでいられる
関係性を広げようとされているグループがあることを知ったから。
それは 『We are Buddies』 WAB(ワブ)という。
オランダ発祥の”バディプログラム”という活動を 日本で実践されている。
れもんハウス 🍋という真心プレイスも 他団体とのコラボで、これからいろいろと、つくっていかれるという。
各サイト記事を読んだら あたたかい真心がまっすぐ伝わってくるのだ。
未来の子どもたちや、それを育む場のために 応援が広がってほしい!
想いを同じくする人との出会いが、たくさんあったそうだ。
青草の原(一般社団法人)さんが運営する れもんハウスの機能をシェアし、これから多様な活動も展開されるとのこと。
よろしければ、ぜひ応援してあげてください!お願いします♡♡♡♡♡♡♡♡
こういう縁(よすが)の輪が、どんなにありがたいことか。
足元からどんどん広げてほしい!! 心からエールを送りたい!!
クラウドファンディングでも (些少のお金だけど少しずつ)、なんでもいいわたしも何かをしたい!と、突き動かされるパッションを感じたのだ。
なぜなら、25年前にそんな場が身近にあってほしかったー!
これは切実に😢
うちは遠回りしたけど、やがて障がいのある息子にそんな友だちができ、
世代を越えフラットな関係を細く長くつづけている。バディの力はすごい。
そこで、自分の来しかたを思いおこしてみたくなった。
わたしについて
🌳 仕事 好きなもの 性格etc
今は福祉の仕事をしている。
高齢の親を介護しながら 社会福祉の勉強をつづけている。
勉強は苦しいが 楽しいいぃぃぃ ということにしておく。
音楽が大好きだ。
あと付けで思い出したけれど 小学校のときおしえられた詩
「くちびるに歌を持て。心に太陽を持て。」
(ドイツ人の詩を山本有三氏が紹介した『心に太陽を持て』より)
いつも遊んでた親友が、私の横でよく諳んじていたことばだった。
わたしは音楽を聴き、歌っていることが とても好きです。
音楽は、どんな時もいつもそばに居てくれる、心の友だち。
「根っこは楽天家だね」とよく言われる。
自分ではわからない、なぜか諦めない人 ではある。
二人の息子の母である。
🌳 息子たちのこと
~はじめての息子~
長男は ☆発達の特性上に強迫症を幼児期に発症した重篤例☆
と診断された。
■強迫症:OCD
OCDは、強迫観念から強迫行為を繰り返すこころの病で
成人40人に一人、人口全体の1~2%の有病率があり、
誰もがかかりうる疾患だ。
世界保健機関(WHO)によると、人々を最も長時間にわたって苦しめる問題のトップ10 に入っている。
コロナ禍では、人々は感染を恐れる疾病恐怖のため、不安があおられる。
社会状況で、みなが “強迫様症状” になりやすさを強めている。
OCD関連の新刊でこう書かれていた。
わたしの人生の様相は、一面的にみるならば、
家族として、まったく書かれているとおり!かもしれない……
いっぱいコワいことを書いてしまった。
OCDは、社会で活躍するスポーツ選手や俳優等もカミングアウトしている。身近でもあるが、とても理解されにくい病気だ。
■自閉スペクトラム症:ASD
長男は9歳で日本児童青年精神医学学会の症例検討に出された。
ベースとなる特性に「発達障がい」があると。冒頭の ☆診断☆が確定した!
2013年、診断基準の改訂をうけて、息子はASDにあたる。
(当時は「広汎性発達障害」とされていた)
見落とされてきて、本人と社会との関係で気づくことになる
“おとなの発達障がい” が多いのもそういう訳だ、とうなずける。
息子には感覚過敏もあるし、ASDは幅広い個人差があるので
「発達凸凹」ということばが 今はしっくりくる。
長男への告知のし方も主治医と相談。発達的なOCDだと伝えた。
そういうケースが、臨床例に多くの割合で蓄積されてきているという。
告知に親としてショックもあったけれど、幼いときからどこか何か違う感じがしていたことにアセスメントをもらい、今思えばすごく安心したと思う。
「強迫症」の症状とつきあいながら、
「発達凸凹」ともつきあいながら、
息子は懸命に工夫し 生活している。
~2番目の息子~
兄の病により、巻き込みをうけて ほんとうに苦しんだ。
ひと言ではあらわせない。
きょうだいの辛い光景は、親にとって自分が苦しい以上に胸をしめつける。
弟は持ち前の強さと明るさで、やがて理解することを努力してくれた。
自分らしくウェルビーイングをつくろうと薫陶をかさねている。
セルフヘルプグループ
🌳 一人でも 共感者とつながりたい
■ 強迫友の会
強迫症の本人と家族のつながりがほしいと一念発起し、
2001年に『子どもの強迫(OCD)友の会』をたちあげた。
たちあげ後も、なかなか同様の家族と出会うことができなかった。
それは みえないところに潜っているから!
セルプヘルプ支援センターというケアリングハウスの機能をしていただけるところに飛びこんだ。後押しをもらい、スタッフの先生方のご熱意とお力があって、毎回の例会に安全な照会をお願いし、感動的につないでもらった。
足を向けて寝れない(古い^^;)と いつも思っている。
保健所のほうからの相談ケースで、同じような体験をされているという
あるお母さんがおられ、引き合わせてもらったのは、
2002年に入ってすぐの冬だった。
話をして、こんなにも話が通じるのかと、お互いあたたかい涙を流した。
共通の体験をもち、志を同じくする仲間と出会い、わかち合いができることに、ほんとうに安堵した。
孤立する親子、一家離散する家族も多く、相談先や支え手が少なすぎる。
情報が届かないのだ。
子どもだけでなく、おとなまで年齢を問わず交流できる場を提供するため、会の名称も改訂することになり、
『強迫友の会 OBRI オブリ』として、ボランティアで現在も活動中だ。
現在、毎月 OBRI交流会を開催している。コロナ禍の後は、対面式での交流会を復活させて、予約は不要で時間内に参加してもらう形をとっている。
セルフヘルプの活動原則は
「わかち合い ひとりだち ときはなち」
いつも実感していることだ。
わたしが一人のお母さんに出会った安心や、それからの行動
その”ものがたり”は 参加する皆さんのものとなって
今もずっと継続している。
周りにたくさんの支えをいただきながら
毎回、安心して思いを話せる場となっている!
■ きんもくせい|絆応援団
地域で『きんもくせい絆応援団 』を同時につくり、併行して活動してきた。不登園・不登校や、障がいのある子どもたち、生きづらさを感じている家族の個別のつながりを細ーく長ーくつづけてきた。
度重なる自身の病気や、家族の状況で、『きんもくせい』はしばらく活動できないでいたが、細々と個別に連絡をとり、支え合っていた。
それぞれの足元で、根を生やし樹を育てて、子どもさんが社会に羽ばたかれている姿から 勇気をいただいている。
このnoteは きんもくせいとして つづけていきますので
このあとも たくさんの「ものがたり」よければ覗いてみてくださ~い
わたしのハニボンズ
わたしのハニボンズ 絆応援団について
あくまでも自分なりの記録で、ぼちぼちと書きはじめたいと思う。
🌳 息子のメンタルフレンド
We are Buddiesの活動の話をきいて、自分の体験をとおし、爆裂共感したことがある。
それは長男が9歳の秋、24歳の青年が、わが家に友だちとしてやってきてくれたことだ。
We are Buddiesでは、子どもと大人ボランティアがフラットで細く長い関係性を築く活動をすすめ、年齢や属性が異なる相手とも信頼関係を築く
という話を聴き、わが家の景色を思い出していた。
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当時、不登校の長男は強迫症状が強く、家族で息をひそめて暮らしていた。息子のこだわりで外に出ることはできず、自由に動けず、何かを1ミリでも動かすと大パニックで、空気を揺らすことすらできないほど、こだわりの病の渦中に家族全員がのみこまれていた。どうやって生活していたかわからず
目の前の壮絶以外はすべてが無! 色も音も感じない、情報遮断の毎日だ。
長男はもともと、わたしの音楽好きを共有してくれ、ロック好きの子どもに育っていた。
よくビートルズの色とりどりのアニメ映画「イエローサブマリン」を一緒に観ていたなぁ
どんな音楽でも好きなわたしは、よく音楽を流し楽器を演奏していた。
いろんな場面で息子と一緒にジャンルを問わず音楽を聴いていた。
それを楽しむ息子の姿が愛くるしかった。
胎児のときから多動で、生まれると夜泣きがひどくて、幼児期からミニカー並べや、おんなじ事をくりかえしてやめられない常同行動、ちょっとの事で
かんしゃくも起こしやすく、でも、障がいだとは思い至らなかったし、
母親🔰わかばマークの自分には、どうにもできないことばかりだった。
近所のママ友がおしえてくれて発達専門の診療所に連れて行ったが、その時は診断基準には至らず、様子をみましょうとのことだった。
わたしは発達障がいという言葉も知らず、ふ~~ん、そういうこともあるのかなぁ、という感じだった。
その後、幼稚園でもこだわりが増え、小学校でも強迫症状がきつくて、通常の生活はできなくなり、学校にも行けなくなっていた。
エレキギターを父に買ってもらい、手指も小さくてコードは押えられない、ただただ、かき鳴らし続けていた。自分をぶつけるように。
息子がよく叫んでいたのは「僕の脳みそは バグってるんやー」
強烈に自我違和感があったのだろう。
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主治医の児童精神科の先生の提案で、市の児童福祉センターから派遣される「メンタルフレンド」という制度を試してみようということになった。
不登校の小学校児童に週一回1時間ずつ訪問して、時間を共有し、とにかく遊ぶというプログラムである。
「じゅん兄ちゃん」(以下:J兄) と家族でよんでいるその人は、40代半ばになる今も、息子の「連れ」であり、ダントツ信頼を寄せている人、大好きな楽しい人なのだ。
世代を越えて たいせつな友だちという間柄はずっとつづき、もうすでに
20年以上のつき合いである。
もともと大学時代からバンドをやっていたJ兄は、思春期に大切なお母さまをうつ病発作の自死で亡くされたと、しばらく後で話してくれた。
「大学院の先輩からそういう制度に参加してみたら という誘いがあって、
なんとなく。母のこともあったし、あの時は何もできひんかったから…自分は子どもと遊ぶことが好きやし、登録してたのも忘れてたくらいですゎ」
と、なにせゆるくて、ほどよく力の抜けた雰囲気なのだ。
児童相談所の担当のおじさんが家庭に様子を見に来てくれ、玄関を入ってもらうのも大変だったが、わが家の話をほんとによく聴いてくださった。
連携の主治医も信頼していたその方は、今は故人となられ 感謝しかない。
音楽好きであることで白羽の矢がたったのがJ兄。
彼が初訪問してくれる日になった。
どれだけいろいろ試しても、病状のために関係が続かないから、本人は嫌だと叫び、泣きわめくに違いないと、親は決めつけていた。
でも諦めたくなくて少しでも希望があれば試してみようと思い続けていた。
後日談で、担当指導員のおじさんからも J兄には
「強迫症状がキツいから、しんどそうなら断ってもいいんやで」と言われ、
メンタルフレント制度は無理かもしれない、という前置きがあったらしい。
それほど、わが家の景色は常軌を逸していたと思う。
🌳「自分が何かできると思わない。
ただ目の前に居るということ」
何回かの訪問がかさねられたとき、家族にも見せない明るい顔をJ兄に見せるようになっていて、遊んだ後は、すごくいきいきした表情になった。
息子は親以外の人生モデルに出会い、みるみる元気になっていった。
家族はまったく自分の時間もないし、幼いきょうだいも含め、いつでも戦闘態勢をとれるようにしていた。いや、とらざるを得なかった。
1秒も気が抜けない極限状態に、ちょっとだけ、大きくふーっと息をつけるスキ間ができた感覚がした。
すごくありがたい。
続くかなぁ、良い意味で心の刺激にもなるから、必ず反動が家族に対して出てくるのである。
家族は、少しだけ休憩がとれるようになると、それに比例して、体が悲鳴をあげる。ストレス発疹/メニエール病、弟のチック症状、と不調が襲う。
そんな繰り返しだった。
少し経つと、長男に石につまづいてほしくなくて、予防線をはろうとする、
母親の自分がラクであるために。
もっと息子のことをわかってほしい、こんなこともあんなこともあるんだから…と、なんでも取り扱い説明をしないといけない、と必死になっていた。
「あのね、息子はね……」と、説明の講釈をたれようとすると、J兄は
「お母さん、ぼくは強迫性障害という病気についてはよくわからないです。
なぜ物に触れないのか?こだわるのか?何故そうなるかはわからないけど、
自分が何かをできるとは思っていないんです。ただ目の前に彼が居るということです。」
と言い放ってくれたのだった。
わたしはほんとうにハッとした。
自分こそが、色眼鏡でわが子を見ているではないか!と。
この極限状態の親子を、J兄は目の当たりにして、なんて尊いことか。
感謝がこみ上げて 頭がさがる思いだった。
同じ空間で息をしてくれる、対等に人間同士としてつきあってくれる人に 息子は出会えたのです。
この出会いは新しい風をわが家に運んできてくれた。
まちがいなく家族みなの人生が転換していくことになる。
大きなターニングポイントになった。
🌳 森の秘密基地
何かできるとは思っていない、何も考えていない、と口にしながらほんとはすごく考えてくれているのではないかと思えてくる。
はっきりと息子が変化してくるのだから。
わたしはひそかに、お見事 J兄プロジェクト!とおそれいっていた。
「なんも考えてへん おもろいことを一緒にするだけなんで 僕がいちばん楽しんでます」と。
家族さえ入ることを拒んでいた自分の部屋にも、J兄だけは入っていいよ、と早くから招き入れていた。
中でケラケラ笑いながらギターを弾いたり、リズム遊びをしたり、駒を回したり、作ったプラモデルを見せたりしているようだった。
家から出られなかった息子も、何か月かすると、近くの森にJ兄と一緒に出かけるという。いつぶりくらいだろう!外に遊びに出かけるなんて。
高揚した明るい顔で帰ってくると、ほんとうに子どもらしい赤いりんごのような頬で、息をきらし、
「森のなかに一緒に入って面白かった、秘密基地つくってきたよ」
と報告してくれた。目がキラキラしていた。
家族も交えてトランプゲームなど勝負がつくこともよくやった。
すごくこだわりが出ていたなぁ。
そんな時もJ兄は自分が楽しむことを忘れない。
病状は劇的に良くはならないけれど。どんなに毎日が苦しくても、
同じほうを向いて、心を響かせあい、そっと隣に居てくれる、
J兄の来訪を楽しみに待つようになった。
そんなハニボンズ J兄との絆の記録はつづく
たくさんのハニボンズも まだまだ書ききれない
長くなったので、記事その[1] はこのへんで・・・
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