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『PERFECT DAYS』から学ぶ抵抗戦略 ドゥルーズから読みとく

PERFECT DAYSへの反応


映画『PERFECT DAYS』を見た。
ネットで本作の批評をみると、興味深いことに本作の批評は二分されている

一方で本作にはポジティブな批評がされている。主人公・平山(役所広司)の日常に親しみを感じ、そのミニマリズムに共感を覚えるというものだ。それは本作のキャッチコピーである「こんなふうに生きていけたら・・・」に端的に表れている。

他方で本作にはネガティブな批評がされている。トイレ清掃の過酷な実体を隠蔽しているというものだ。トイレを作る会社が、トイレ清掃というキツい職業を「漂白」しているというわけだ。

正直言って筆者は、これら両方に納得してしまった。
こんなふうに生きていけたら・・・」とも思ってしまったし、「これちょっと美化しすぎじゃね・・・?」とも思ってしまった。


第三の解釈

これら2つの解釈に納得しつつも、「もっと別角度から解釈できないか・・・?」と筆者は考えていた。そのうち次のような解釈が思いついた。

その解釈とは

平山は2つの方法で会社に抵抗している

というものだ。

そしてこの解釈を思い付くにあたって筆者は、ある人物が提唱した2つの概念を参考にした。それは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが提唱した、イロニー(Ironie)と、ユーモア(Humeur )である。

ドゥルーズのイロニー/ユーモア


ドゥルーズを専門とする千葉雅也は、イロニーとユーモアを以下のように説明している。

『マゾッホとサド』でドゥルーズは、サディズムとマゾヒズムを、それぞれイロニーとユーモアに対応させていた。
イロニー的なるサディズムは、この世界のすべてを唾棄する「破壊的な批判」なのですが、これに対してユーモア的なるマゾヒズムは、破壊的にではなく、この世界の使い方を変えてしまうというか、「別様に楽しんでしまう」ようなことをする。その工夫が、見る角度によって滑稽で、生真面目に——法律家のように——取り組むほどに、ますます滑稽になる

千葉雅也『思弁的実在論と現代について:千葉雅也対談集』青土社, 2018年,p.200


平たく言い換えるなら次のようになるだろう。

イロニーとは、ある出来事を真っ向から否定することで、それに直接的に抵抗することである。

ユーモアとは、ある出来事を勝手に楽しんでしまうことで、それに間接的に抵抗することである。(※1)

では、これら2つの概念を参考にしながら平山の確認していこう。

キツい仕事を拒否する(イロニー)

平山はある場面においてイロニー的な抵抗を示している。
それは彼が会社に電話する場面だ。

平山にはタカシ(榎本時生)という後輩がいた。
しかし彼はいきなり仕事を辞めてしまった。

平山は、タカシの分の仕事を任される。
平山は夜遅くまで仕事をすることになってしまう。

最初は平山もそれを受け入れていた。
しかし長時間労働は、さすがに平山にもこたえたらしく、彼はとうとう会社に電話をかける。

あのさ これ毎日は無理だからね
だれでもいいから寄こして いいね

『PERFECT DAYS』(01:38:00)

ここで平山は怒りをあらわにする。長時間労働を是正するよう、会社に訴えている。

つまり平山は、キツい仕事を真っ向から否定し、それを是正するよう直接的に会社に抵抗しているのだ。これはまさにイロニー的な抵抗である。


キツい仕事を楽しんでしまう(ユーモア)

一方で平山は、ユーモア的な仕方で会社に抵抗していると考えられる。

というのも平山は、自分なりの「やりかた」や「こだわり」をもって、会社が課すキツい仕事を楽しんでいるように見えるからだ。

平山は自らの流儀やテクニックを駆使して、トイレをピカピカに磨き上げる。その見事な仕事ぶりは、作中で何度も映し出される。

平山とタカシ

彼のこうした仕事ぶりを際立たせるように、本作はタカシの怠惰な様子を描いている。こうした対比的な描写は、平山の真剣さをより強調している(いくぶん誇張された図式的な描写ではあるが)。

これらの場面からは、平山がこの仕事に楽しみを見出していることがうかがえる。でなければ平山は、あれほど真剣に仕事をすることができないだろうし、逆に言えば、タカシは仕事に楽しみを見出せなかったからこそ辞めていったのだろう

○×ゲーム

ユーモア的な抵抗は「○×ゲームの場面」でも確認できる。

平山は仕事中に、あるメモ書きを見つける。そこには○×ゲームの図が記されていた。最初はメモを捨てようとする平山だが、結局はメモに×を記入して、もとあった位置に戻す。後日ふたたび同じ場所に行くと、メモに〇が記入されている。平山はふたたびメモに記入し、それをもとの位置に戻す。

このトイレで平山は、見知らぬ誰かとひそかに○×ゲームで楽しんでいる。

トイレは公共の場所である。そうしたメモ書きは処分されるはずだ。実際、平山は他のトイレに落ちているゴミを淡々とゴミ袋に入れていく。しかし彼は公共の場所において、会社の目をかいくぐり、見知らぬ誰かと私的なゲームをするのだ。

このように平山は、仕事に自分なりのやり方を見出したり、あるいは私的なゲームをすることで、会社の課す仕事に間接的に抵抗していると考えられる。(※2)


おわりに

ここまで見てきたとおり平山の言動は、会社による理不尽な処遇への抵抗戦略としてみなすことができる。それはすなわち、理不尽な待遇にハッキリとノーを突きつけたり、あるいはキツい仕事を勝手に楽しんでしまうことで、キツさ自体を無力化してしまうということだ。(※3)

そしてこれらの抵抗戦略は、私たちの日々の暮らしにも応用することができる。なぜなら私たちは会社や学校など何かしらの組織に所属しているからだ。組織にいる以上、理不尽な状況に巻き込まれるのは避けられない。そして理不尽な状況に巻き込まれたとき私たちは、平山の言動を思い返し、イロニーとユーモアによって理不尽な状況に抵抗するのだ。

さらに言うとイロニーとユーモアは、どちらか一方が過剰になってはいけない。バランスよく使い分けていく必要がある。(※4)

イロニーが過剰になると、何もかも破壊しつくしてしまう恐れがある。組織に直接的に反抗ししすぎると、その組織から追い出されてしまう。もし平山が会社に不平を言い続けたら、彼は会社から解雇されてしまうかもしれない。

ユーモアが過剰になると、理不尽な状況の存在それ自体を追認してしまう恐れがある。組織が押し付ける理不尽を楽しんでしまうことは、それを押しつける組織、ひいては社会構造自体を自明視してしまう。もし平山があの仕事を文句も言わずこなし続けていたなら、労働環境はいつまでたっても向上されないだろう。

したがって我々は、イロニーとユーモアのどちらか一方に頼り切るのではなく、それらを時と状況に応じてリズミカルに併用していく必要がある。そうして我々は、組織や社会がもたらす理不尽を、ときにアイロニカルに、ときにユーモラスに跳ね除けていくだろう。

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(※1)
千葉が述べている通り、ドゥルーズはユーモアを以下のようにマゾヒズムに対応させている。ここから分かる通り、ユーモア≒マゾヒズムは、本来苦痛となるような刺激を、勝手に快楽の源泉としてしまうのだ。

ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突き当たることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見するのだ。マゾヒストのユーモアとは以下のようなものである。欲望の実現を禁じ、それに違反するなら処罰を下すその同じ法がいまや、まず処罰を行い、その帰結として欲望を満足させるよう命ずる法となるのだ。

ジル・ドゥルーズ(著);堀千晶(訳) 『ザッヘル=マゾッホ紹介:冷淡なものと残酷なもの』河出書房新社, 2018年, p.123


(※2)
ドゥルーズのユーモアは、ミシェル・ド・セルトーの「戦術/戦略」と、近年話題になっている「自治」という概念に近いところがある。

「ミシェル・ド・セルトー(一九二五ーー九八六年)は、私たちの日常的生活を「なんとかやっていくこと」ということばで表現しています。
私たちの生活の場は、間取りとしての家にせよ都市にせよメディア環境にせよ、企業や制度などの大きな存在によってすでに与えられているものです。現代社会においては、個人に先立って権力を持つ存在がおり、それらが提供するシステムのなかで私たちは生きています。
私の幼少期の家も、不動産会社が計画的に建てたマンションで、その間取りは自由に動かせるものではありませんでした。このように、システムの側が用いる権力性ある計画のことを、セルトーは「戦略」と呼びます。
ですが私たちは、そのシステムの網の目を掻い潜り、システムのなかに自分や文化に固有の生き方をひっそりと成立させていきます。他者に与えられた場でなんとかやっていくために、人々は工夫を凝らしていくのです。セルトーはこれを「戦術」と呼びます。・・・・・私たちは、個人の力を超えた領域によって与えられるモノを、自分たちのやり方で工夫して用いていくのです。

青田 麻未「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門 p90

自治〉とは、「一見、便利なもの」に潜む抑圧の構造を認識し、かといってそれを全否定するのではなく、「ちょっとした工夫(+α)」で、既存の仕組みを組み換え、世界の見え方を変え、このクソみたいな世の中をちょっとでもましにしていくことだと理解することができます。こうした見方に立てば、大学を〈大学〉に、会社を〈会社〉 に、病院を〈病院〉に変革することもできるかもしれません。このように、さまざまな領域で 〈自治〉の可能性は開かれているのです。

松本卓也 『コモンの「自治」論』p191

(※3)
なお、こうした抵抗戦略は、本作の作り手たちが自覚的に盛り込んだものとは思えない。平山自身も、自らの言動に潜む抵抗戦略に気づいていないだろう。こうした戦略は、ドゥルーズの2つの概念を用いたからこそ浮き彫りになったことである。今年はドゥルーズ没後30年にあたるが、彼の思想が今なお色褪せないことを本稿で提示できたのであれば嬉しい限りである。

(※4)
AとBという二つの二項対立があったとき、どちらか一方に固執するのではなく、両方を保持する。こうした「AとBのバランス」という図式は、千葉雅也の『動きすぎてはいけない』を参考にした。千葉は同書で、これまで「接続」の意味合いが読み取られてきたドゥルーズのテクストから、「切断」の意味合いを前景化させると同時に、それらのどちらか一方を優位にすることなく、「接続と切断のバランス」が重要だと説いている。














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