【#肩書き のない時間〜10週目】
水底で舞い上がった砂が、
再び水底に落ちついて
再び視界が透明に戻る。
今週は、そんな#凪 の様相を呈している
#ノー肩書きライフ 。
視界が整って、初めて気づけること、
整わないと、気づけないことがある。
もちろん、砂を巻き上げながら掘り起こすのも必要。
激しくて大変だけど、その分#ドラマチック でわかりやすい。
でも、それだけじゃ、片手落ちなのか。
そんな#地味 な段階が始まった気がする。
人は、というか、わたし自身は、どうしても「わかりやすさ」を求めがち。
わかりやすさと、手っ取り早さは、似ていて、#easy に感じて、魅力的。
でも、それだけでも、片手落ちなのも、わかって来たような気がしている。
年明けから、必死に駆け抜けて来て、#下半期 に入った途端、凪。
ひと息つけた安堵感と、なんとも言えない「モヤモヤ感」。
これは、なんだ?「#嵐の前の静けさ 」とは、思いたくない(笑)
しばらく、観察して気づいたのは「論破されたくない」という恐れ。
年明けからの水面下の動きは、当たり前だが、真っ最中の真っ只中。
何せ、人生の土台を根こそぎ変える感じ。容易くはない。
土台ごと変えるとなると、知識や、理性だけでは到底無理。
感覚も、感情も、身体の全てを総動員して、
体験して感じたり、学んで考えたり、
あらゆる場面の自分を観察したり。
そんな中で、
感覚的には確かでも、
まだまだ理性が追いついていない、
言葉にできない状態なのだと気づく。
「言葉にできない」状態が、怖いのだ。
なぜなら、「丸腰」だから。論破されてしまう恐怖。
わたしにとって、つくづく言葉は「#武装 」でもあったのだ。
自分で思う以上に。
論破されても死にはしない。
しかし、子供の頃から、論破されたら、相手に合わせることが
習慣的でもあった。
それがどんなに不本意でも。
他人に正しくないと決められたら、わたしには抵抗できない。
そんな、謎の思い込みがあるらしい…と、気づく。
これは、水底が澄んでないと、見えない奴(笑)
また一つ、#大人の階段 を(いい加減)上れ!という奴だ。
「言葉の守備的武装」は大切だ。
でも、それが無いと怖くて仕方がないのは、また少し違う。
どんなに論破されても、
言葉にならない思いまで
消し去ることはできなかった。
相手に合わせて、自分に嘘をついて、
カメレオンのように自分を守って、
そうやって生き延びて来たのは事実。
それを手放す時が来ている。音もなく静かに。
そして、言葉にできなくても、
自分を守りたかったし、守られたかった。
言葉にできないままでも、安心して生きていたい。
「#帯に短したすきに長し 」
わたしの右脳と左脳はいつだって中途半端で
感覚派の中では、鈍感でついて行けず、
論理派の中では、繊細でついて行けず。
人並みに関わって生きて行くには、
両方を総動員するしかなかった。
それでようやく、少しだけ
他者との関わりに「安心」が生まれた。
でもそれは、「武装の仕方」を知って「ちょっと安心」しただけだ。
「通じない」「わからない」ことの恐れ。感覚的で無意識な思い込み。
「自分が否定された」傷がそこにあり、
それを握りしめているわたしが、
まだまだ隠れてる。
次はこれを手放すのか。
この先のテーマは
「#ディスコミュニケーション も#コミュニケーション なり」だな。
伝わらない不安に駆られるのではなく
伝わらなくても、恐れなくて良いと学ぶ。
主体的に委ねる。依存ではなく。
どんな時にも、ブレない土台を持つ。
そのための「レッスン2」が、
始まってるのかもしれない。