子どもの「やりたい」を受け止めるには、『家庭』という枠組みはあまりにも小さすぎる
こちらの本を読了しました。
『学校に行けない子どものの気持ちが分かる本』
また、Audibleではこちらを聴いているところです。
『「学校に行きたくない」と子どもが言ったとき親ができること』
※なお、これまでの経緯は、このあたりの記事をお読みいただければ幸いです。
読書したり、夫と話したり、インターネットで検索したりしていくなかで、やっと私が気づいたことがあります。
それは、
子どもの「やりたい」を受け止めて、やらせてあげようとするとき、
『家庭』という枠組みはあまりにも小さすぎる
ということ。
私は、子どもが好奇心を発揮して興味を持って「やりたい」と思ったことは、できるだけやらせてあげたいと考えています。
それは習い事や、普段の生活においても、なるべく心掛けていることです。
そのやり方は今までは、ギリギリ機能していたのだと思います。
息子が学校に通っていた頃は、私が自由に使える時間が平日に数時間は担保できたから。
でも、息子が「学校に行きたくない」と休んだり、2時間目で帰ってきたりするようになってから、そのバランスが崩れました。
朝から「行きたくない」と主張する息子に向き合い、やっと登校し始めても1~2時間後には迎えに行って・・・、
私一人が自由に使える時間は激減しました。
「息子の想いを、やりたいことを受け止めてあげたい」と思いながらも、どうしても丸ごと受け入れられない自分もいて、苛々して、不安定な日々が続いています。
読書やネット検索で、たびたび出てくる「フリースクール」という言葉。
存在は知っているけど、ちゃんと調べたことが無かったんです。
きっとどこかで、拒否反応を発してい譚だと思います。だって通ったことも無い、全然知らないもの。「フリースクールなんて」と軽視していた面もあったと思います(不快に思われたらごめんなさい)。
ただ、シュタイナー学園やデモクラティックスクールについては過去に調べたことがあり、実はそうした教育機関もフリースクールの一種だ、という記載をどこかで見かけて、「それならば」と重い腰をあげ『住んでいる地域 フリースクール』で、初めてネット検索してみました。
自転車やバスで通える範囲内に、ひとつ見つかりました。
サイトを掘り進めていくと、こんな記載がありました。
なんだ、同じ気持ちじゃないか、と。
ここなら、もしかしたら私と同じ思いを持った方が、息子を受け入れてくれるかもしれない。
そう思って、夫に軽い気持ちで共有したら、
「そこいいよね!そろそろ考えてもいいかなと思ってた」
と言ってくれました。
ここまで進んで初めて、
私は、学校に行きたくない息子の想いを受け止めることを、家庭だけで(なんなら日中は私だけで)やろうとしていたから、辛かったんだ
と気づきました。
同時に、
「子どもを社会で育てる」
ことを、実感した気がしました。
単純に時間面だけであっても、平日の5~6時間子どもたちを預かってくれる学校に、当たり前に通えること。
スイミング、ピアノ、楽しく通える習い事に出会えたこと。
時々、煮詰まった私を見かねて、近くに住む両親が子ども達を連れ出してくれること。
遠くに住む義両親が折を見て、子ども達と夫や私にまで、温かいお手紙とプレゼントを送ってくださること。
もやもやしている私の話を聞いてくれる、友達がいること。
子どもを育てる上で、『家庭』という枠を超えて、親戚、教育機関、地域、友人関係などの『社会関係』に支えられていることを、学校に行かない息子を受け止めようとしたことで、改めてというかほぼ初めて、体感したような気がします。
ありがたや、ありがたや。
今まで、働いているときは保育園に預けさせてもらったり、時々両親に子どもをみてもらって夫婦で出かけたり、社会関係にお世話になってきた。
だからね、いまこの時も、同じなんだと。
もうすでに私の、家庭のキャパシティーを越えていることに関しては、無理せずに社会を頼ろうと。
ようやく気付いた、という話でした。
今日は久しぶりに、音読を自分からやっていたな。
1時間だけ2時間だけでも学校に居る時間が増えてきたことで、少しずつ、学校が楽しいと思えているのかもしれないな。
では今日はこの辺で。
最後までお読みいただきありがとうございました!
hona
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?