安楽死問題
医師の殺人ほう助なのかそれとも積極的安楽死なのかという問題に関して様々な意見があるかもしれない。自分の周辺でもデス・カフェを一緒におこなったスタッフとメッセンジャーでやり取りがあった。
現時点での個人的な見解をまとめておきたい
課題の分科
まず課題を分けることが必要だとおもう。法律と医師の倫理と当人の苦痛の三つに因数分解してみたい。
法律上は明らかに殺人罪になる。当人の依頼に由来しているが、殺人ほう助であることは明らかで、現行法律では罪問われて当然と言える。
次に医師の倫理であるが、当初は当人の依頼でありある意味の善意とも見えないこともなかったが、医師たちが主治医でなかったことは大きい。通常、患者当人に伴走していた人物でなく。一時の関係であり、お金による依頼殺人という状態を超えていない。人生におけるリスクとしては大きすぎますし、今後の人生を棒に振ることになるので、当初は良心的な確信犯かとも考えられたが・・・
報道をみるとある意味の完全犯罪が可能とでも考えたのだろうか?いづれにせよ浅はかではないかとは感じます。
患者当人の問題は実は難しい。殺人を依頼し、かつ亡くなるのは当人ですから・・。苦さは当人にしかわかりえない。それを第三者が判断することはできない。この病気でないなら亡くなろうとはしなかっただろうし、そもそも自死の選択肢があれば依頼はしていない。となれば、現行法律変更を考えないならば、考えるべきは精神的苦痛をどう減らすか?となる。
今までであれば、各地域での分かち合いの会ということになるだろうが、移動も含め多くの手間、金銭、精神的苦痛が伴う可能性があったとおもう。
しかし、コロナ禍で見えてきたのはオンラインの可能性がある。本人がパソコンを動かせないとしても援助者がパソコンもしくはスマホを用いうることができれば、患者当人同士の分かち合いの会ができる可能性がある。患者当人同士しかわからない部分もあるだろうし、それにより癒される可能性はあるとは思う。
仏教では?
ちなみに仏教は自死をどう考えていたか?
佐々木閑『日々是修行』では下記の如く書かれている。
一部のキリスト教やイスラム教では、せっかく神が与えてくださった命を勝手に断ち切るのだから、それは神への裏切り行為として罪悪視される。自殺者は犯罪者である。 では、仏教ならどうか。仏教は本来、我々をコントロールする超越者を認めないから、自殺を誰かに詫びる必要などない。確かに寂しくて悲しい行為ではあるが、それを罪悪視されることはない。仏教では煩悩と結びつくものを「悪」と言うのだが、自殺は煩悩と無関係なので悪ではないのである。ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。 人は自殺などするべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けなければならない。しかしながら、その一方で、自分の命を絶つという行為が誇りある一つの決断だということも、理解されなければならない。人が強い苦悩の中、最後に意を決して一歩を踏み出した、その時の心を生き残った者が、勝手に貶めたり軽んじたりすることなどできないのだ。(89頁)
仏教で考えるならばですが…
仏教の場合、その唯一の拠りどころは日々の向上を目指す自分自身だから、守るべきは唯一、自分の清廉さのみ。「自己を正しく保つこと」がこの世で最高の善となるのだ。したがって釈迦の仏教を守る人は「決して殺さない」。(91頁)
仏教は不殺生が戒律の一番ですから、殺す行為は否定されています。故に今回のケースでは、医師の行為は否定されます。一方で患者当人の意志は否定できません。当人が自死を行うことができないケースなのでこのような複雑な問題になっていますが・・・
となればある意味の線引きは必要です。そこには、積極的な安楽死、消極的な安楽死(尊厳死)も含み微妙な問題がはらんでいるとは思います。QOL(クオリティー・オブ・ライフ)の問題としても検討していく必要はあるのかもしれません。