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見つめる、見つめられる

東日本大震災がおこり10年たった。本休寺の月イチで行なっているぴよこの会(子育てサークル)を終えられた方々の何人かと茶話会であった。

茶話会前に、プチ修行的に様々なことを行なっている。写経や写仏、カラーリングマンダラなどであるが…本日は慰霊法要という形に。

法要後、「常説法教化」という法華経の一説を説明し、死者と我々の関わりをといていることを話した。かつてこの言葉に関してはインタビューで話したことがあるが…

http://mytera.jp/paper/kotoba_honkyuji_0022/

その後、ソーシャルディスタンスに気をつけながらお茶をし、あの日どうしたのか…という話に。

途中からは、いつものように様々な話になったが…

ここ数日、このnoteの更新ができなかった。理由は、本が5冊ぐらい並走読みしていて進まない。(笑)

本日、読み終わったのは…

たまたま、このタイミングで読み終わらせた。

今月の100de名著の講師である若松英輔先生の代表的作品ですが、今月の講義にもリンクする内容です。

死者論がメインで、学び多き本だが、

祈りとは、願いごとをすることでなく、沈黙のうちに超越の声を聞くことである。祈りに必ずしも宗教は必要ない。祈りは、宗教以前の営みである。私たちが死者と遭遇するのも、宗教以前の世界である。(162頁)

この文章を一見すると宗教批判のように見えるかもしれないがそうではないと、個人的には思う。

死者の存在がごく当然であり、その有無を論ずるまでもないという観点なのであろう。

現実に本書では、日蓮論を論じた上原専録や法然、親鸞にも触れている。また遺骨に関しても

遺体、遺骨、あるいは遺品が死者そのものでないことを、遺族は感じている。だが、それは死者との交わりにおける起点であることも、同時に感じられている。死者の棲家ではない墓石を私たちが大切に思うのは、そこが生者と死者が正式に会う待ちあわせ場所だからである。(23頁)

本書を読みながら、常に感じるのは、我田引水だと思うが、法華経の言葉だった。「常在此不滅」や「常懐悲感心遂醒悟」の言葉を…。

実はこのnoteでも紹介した植木雅俊先生の本書は

あとがきにこう書かれている。

2018年に若松英輔氏が『小林秀雄 美しい花』で角川学芸賞を受賞され、12月に行われた受賞式でお会いした。すると「100分de名著 法華経」の話になり、「今までのすべての放送とテキストを見ていますが、あれはよくできていました。あのテキストをしっかりした本の形で出してください」と要望された。本書が、その要望に応えたものになっていることを願っている。(306頁)

この文章だけでは、わからなかったが、『魂にふれる』を読むことでこの言葉の意味がわかる気がした。

宗教をどう捉えるか?仏教をどう捉えるか?それは人それぞれのイメージがあり、こうだと述べることは、実は難しいと個人的には思う。

しかし、常に死を見つめ、死者に見つめられていると感じることは、生者たる我々のあり方を抑制し、よき導き手になってくれるのではないだろうか?

死は苦であることは、欲がある限り変わらない。しかし、死者の存在は苦ではない。我々を支え、導いてくれてもいる。そのことを本書は改めて伝えてくれていると感じる。


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