悟ったら、強欲になる?

居士到初地犯妻千回

「悟り」とはよく聞くというか、誰でも聞いたことのある言葉だろうが、それがどういうことかわかっている人は少ない。悟りに興味を持つ人も多くなさそうだが。
悟りや悟った人に関して人が抱くイメージとしては、聖人君子であったり、欲を捨てた隠者であったり、全知全能的な神のようであったり・・だろうか。

居士到初地犯妻千回

これは中国の仏教に関する古い本を読んでいた時に出てきたうろ覚えのフレーズ。大乗仏教が生まれる前の伝統的な仏教では、悟りには四段階あることが知られていた。そのうちの一段階目を初地といったわけで、意味は「悟りの一段階目に至った在家の修行者は、自分が悟ったことに気づかず妻を千回も抱く」というような意味だ。「妻」としたのは便宜的でその実「女」と言いかえられそうだ。無欲になるどころか俄然性欲が強くなるというのだ。なのでこの話が本当なら「この人はセックスが好きだから悟ってない」などとは安易に言えないのである。そういえば、大徳寺のトップまでいった一休さんは女好きだったことが知られている。

なぜこんなことになるのか、不思議かもしれない。しかしこのフレーズは、悟りの第一段階の話だ。二段階目には欲が減り、三段階目には欲は消滅するらしいので段々と「悟り」らしくなる。そして四段階目が本当の意味での「解脱」だ。なので話が混乱する原因はおそらく、世間的に悟りと言われるものは第四段階をイメージしているが、実際に修行を始める人々にとっての目標はほとんどの場合第一段階であること。まずは第一段階をクリアしなければ、その先は目指せないという意味でもっともなことではある。

話は戻って、初地すなわち第一段階では欲は減りもしないのである。存在の実相を見ることで世界認識の根本的な誤解が解けるだけ?で、いきなり人格円満になったり慈悲深くなるわけではない。むしろなにかタガが外れたように自らの欲に正直になり、いわば心が解放された状態になる結果、冒頭のフレーズのようなことになるわけだ。ただしこれは人によるだろう。その人が自制するかどうかにかかっている。出家者は戒律があるのでそのような行為に及ぶことはなかろうと思われるが。

「悟りの一段階目に至った在家の修行者は、自分が悟ったことに気づかず妻を千回も抱く」

自分が悟ったことに気づかずとはどういうことか。釈尊が初めての説法をされたとき、コンダンニャ長老が第一段階に至ったのだが、コンダンニャ長老自らが「私は悟った」と言うのではなく、釈尊が「コンダンニャは悟った」と指摘されていることは注目して良いと思う。その様子を経典では「法眼」が生じたと表現されている。法眼とは真実を見抜く知慧とでもいうべきだろうか。つまりは「苦」であり「無常」であり「無我」なる存在の実相を初めて目の当たりにするのだが、そこに「無常」とか「無我」とか書いてあるわけではない。ただ、いや、ただならぬ体験をしたことは間違いないが、それを説明する能力を体験者は持ち合わせていない。ブッダだから言語化できたのだ。

禅宗という、インドから遠く離れた辺境の地で発達した仏教の一派では本場インドのように悟りについて詳しく学ぶことはなかっただろう。だからそれを説明する言語を持たなかった。しかし悟りは確かに伝わっていた。わかるが、言葉にはできない。不立文字とは、そういうことでもある。一人で修行をしていた禅僧が、自分が体験したただならぬ出来事を、「これは悟りだ」と断定できるような予備知識はなかった場合、それを確かめるために高僧を訪ねて行って「証明」してもらうというような逸話は禅宗関連の本によく出てくる。
悟りの体験というのはほんの一瞬。在家の修行者であれば、その後は欲も怒りもある日常生活である。気づかないままということもあり得るのだ。あくまで第一段階の話。

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