一番尊敬する人は?と聞かれたら、お釈迦さまと答える。まだ聞かれたことがないけど。そう思うようになったのは、いつ頃からだろう。はっきり自覚するようになったのはここ10年ほどだと思うけど、中学生のころ仏教に興味を持ち始めた頃から、すでにそうだったのかもしれない。 私はとても反骨精神が強くて、実際に出会ったどんな人にも欠点を見つけてしまうと尊敬できなくなるところがあった。だんだんと歳をとると、どんな人にも、それこそ猫や犬にも美点を見つけて尊敬するようになった。でも、全面的に、あら
前回、日本人の礼法についての考察を通じて、「型」は残っているが長年月の間にその型の発祥時点の経緯や意味が失われていることがあることを書いた。しかしそもそもの意義が継承されていなくても、型の価値は無くなっていない。 同じことが尺八の世界にも言える。 古くから継承されてきた尺八の曲のことを「古典本曲」という。作曲者は一部の例外を除いて不明である。したがってその曲がどのような経緯でどのような意図で作られたのかは伝わっていない。古典本曲継承者たるわれわれは、とにかく教えられた通りに
居士到初地犯妻千回 「悟り」とはよく聞くというか、誰でも聞いたことのある言葉だろうが、それがどういうことかわかっている人は少ない。悟りに興味を持つ人も多くなさそうだが。 悟りや悟った人に関して人が抱くイメージとしては、聖人君子であったり、欲を捨てた隠者であったり、全知全能的な神のようであったり・・だろうか。 居士到初地犯妻千回 これは中国の仏教に関する古い本を読んでいた時に出てきたうろ覚えのフレーズ。大乗仏教が生まれる前の伝統的な仏教では、悟りには四段階あることが知られ
字の上手い人と下手な人がいる。上手い人の字は美しく感じ、下手な人の字は見苦しく感じる。少なくとも私には。字は、そもそも記号なのだから意味がわかれば、判別できればその役割を果たしている。なのに優劣をつけてしまうのはなぜだろう。読みやすさというのは無論あるのだが、それだけではないように思う。 古くから伝わってきたものには、すべからく「型」がある。書道には書法があり、料理には調理法がありレシピがあり、茶道には所作があり、武道には攻撃や防御の形があり、音楽には楽譜があり演奏法がある
還暦前となり、もはや若くはないいま、何かを残したくなりました。 家族や、友人や、バーのマスターや常連にも話さないこと。 しかし自分の中ではとてもシリアスで大切なもの。 いつかだれかが、何かを感じてくれることを期して。