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読書感想文note【公正を乗りこなす】
「公正を乗りこなす」を読みました。
気になった文章を一部引用しながら、考えたこと・感じたことを書きました。
3500字近くなりましたが、目次を作りましたので、気になったところだけでも読んでいただけるとうれしいです。
とても面白い本でした。
僕たちはどうして協業を選ぶのか
おのおのが違うニーズをもちつつも、それを達成するうえで独力よりもマシな選択肢として、わたしたちはみなで力をあわせつつ生きること━━「協業(cooperation)」━━を選ぶのでした。
「誰と一緒に働くか」を考える時にも覚えておきたいこと。
ニーズは一人ひとり違うもの。
それぞれのニーズに共感したり、協力し合いたいと思える部分があるかどうか。
会社で働く場合、会社としてのニーズ(社長のニーズ)に共感する部分があるか。
まずもって、社長はそのことを示す態度があるか。
一緒に働く人がいるのならば、社長はそれぞれの人にニーズがあることを理解し、そのニーズが「一緒に働くことによって」、「独力よりも」達成に近づける可能性を示すこと。
自分のニーズにたどり着いている人が少ないと思うな。
誰かのニーズに乗っかっている方が楽なのかな。
楽だとしても、自分のニーズを手放してはならないと思うし、そこへたどり着こうとすることをやめてはいけないと思う。
ニーズが実現されない原因はどこにあるのか
自分(たち)こそ社会の中心であるという幼い自己中心的感覚から脱して、世界には多様なひとたちが存在しているという厳然たる事実を学び、だれもがちょうどひとり分の権利を有しており、自分もまた一市民なのだという感覚をもつことは、おとなであることのひとつの条件です。
だれもがちょうどひとり分の権利を持っている。
シンプルだけど、それが実現されていないと見える現実は何なんだろう。
誰かが持っている権利に対して、「それはひとり分じゃない」と感じる。
多くを持っていそうな人に対しては、自分にもそれだけ欲しいと願うし、
自分よりも持っていない人に対しては、自分と同じだけのものがあればいいと願う。
願うだけではダメなんだろうな。
声に出したり、行動したりしないと。
権利とは何なんだろう。
先に出た「ニーズ」とどう違うんだろう。
ニーズって欲求だよね。
この本の言葉を使うと、ニーズは「善構想」とも言えるのかもしれない。
権利は、一人ひとり違うと不平等だと感じる。
「ニーズ」があった時に、それを実現できるかどうかの可能性が「不平等な権利」によって左右されてしまうことが問題のように感じる。
誰かのニーズが実現されないのは、「不平等な権利」が原因ではないのか。
そう考える視点を持っていたい。
鈍感であるとは、「知ろうとしない」こと
公共的なコミュニケーションにおいて、わたしたちの社会にどのような「優/劣」の極をもった属性の軸が存在しており、いま目のまえにいるそのひとがどこからやってきて、どんな座標上にいるのかに対して鈍感であるとき、往々にして事故の加害者になりうるでしょう。
「鈍感であるとき」というのは、まさしく鈍感であるときと、もう一つ言い換えるとすると「知ろうとしないとき」だと思う。
世界には色んな人がいることは理解していても、目の前の人に対して「どこからきたのか」「どんな座標上にいるのか」を「知ろうとしない」場合、加害者になりうる。
「関心」と「尊重」
「他者の利害関心への無関心」というのは、自分以外の人はどんなことをよしとして━━つまり、どんな善構想をいだいて━━おり、どんな利害をもってなにを追及しているのかについて、自分の利害関心をもたないということです。
ー中略ー
この態度は自分以外のひとに対して自分とまったく同じ利害関心━━ひいては善構想━━をもたせようだとか、あるいはもとから同じ利害をもっていることを前提として、みなにとってのよいことを追及したりといったことも、いっさいしないのです。
なるほど!
他者の「利害関心」に対して、自分の「利害関心」をもたない。
完璧に理解したわけでも、今すぐ正確に体現できるわけでもないけど、覚えておいて目指していきたいことだな。
やっぱり、自分にとっての利害関心・善構想・ニーズを知っておくことが大事な気がする。
知らないと、無意識にもそれを他者に求めていたりするから。
それは結局、他者の利害関心への尊重がないということ。
「関心」と「尊重」という言葉についても考えたい。
『「他者の利害関心へ無関心」だったとしても、そこに「尊重はある」』というのは成り立つだろうか。
僕は、成り立つと思う。
ここでいう「無関心」というのは、「他者の基準に対して、自分の基準を当てはめようとしたり、ジャッジしようとしないこと」だと思う。
基準が同じである方がいいとか、違うのは悪いことだと認識すると、当てはめようという動きが出てくる。
本にもあった、哲学者ジョン・ロールズの提唱のように、
「正義」とは、競合しうる善構想どうしを調停し、合意に至った状態において実現するものであり、そのための一連の手続きである
のだから。
言葉にはパワーがある
たとえば、同じ宗教の信者たちが改宗を迫られたとき、ある者は棄教し、ある者は殉教するということがあったとして━━歴史上数えきれないほどあったわけですが━━、それは少なくとも今日の社会においては最終的には個人の裁量であったと評することが可能です。しかし、この例において、「殉教/棄教」という表現につきまとうように、ほんとうに正しい(かもしれない)もののために生命をなげうつことは、たんに個人の裁量による死と解釈されるよりも、途方もなく価値があるかのように思われるのではないでしょうか。
言葉は完全無欠なものでも何でもないけれど、パワーがある。
「配慮」と「調整」
もし、こうしたニュアンスをくんで「しかるべき調整(reasonable accommodation)」とでも訳出したならば、少なくとも「配慮」という語彙にともなう「しんどさ」の連想という回路は、ある程度ストップできるのではないでしょうか。こうした「調整」は、もちろん社会の有限なリソースによって負担するものではありますが、しかしロールズの「公正としての正義」と同じく構造ないしシステムをどう整備し、メンテナンスするのかという公共的な問題なのです。
確かに「合理的配慮」と「しかるべき調整」とでは印象が違う。
そして、障害に対して使う言葉としては、「配慮」よりも「調整」の方がしっくりくる。
「配慮」には「しんどさ」が連想されるし、「配慮する側ーされる側」という境目を濃くする。
「調整」にも負担はあるけれど、「公共的な問題」と捉えることができ、境目があるわけではなく「そこの一員として」という感じになる。
何らかの障害に対して「配慮してもらうこと」を挙げるのではなく、「調整が必要になること」とする方がいいよね。
配慮するというのは、「支えてあげているんだ」という感覚を醸成してしまう。
「支える」も境目を濃くする感じがするな。
「支える」というのは、結果としての話だと思う。
「支えになれるかもしれない」と思って、それをきっかけに動き始められるのは素晴らしいこと(と最近思えるようになった)。
でも、その行動が「実際に支えになったかどうか」はわかり得ないものだと思う。
「支えになれるかもしれない」が、「支えにならなくちゃ」とか「支えになれて嬉しい」に繋がってしまうと危険。
そう考えると、やっぱり「支える」は結果でしかわからなくて、事前にそれができることを期待したりするのは「行動を起こすきっかけ」以外には意味をなさないのかもしれない。
「支えになりたい」とか「〇〇(自分以外)のため」っていうものを、今まで信じてなかったけど、それが実際にわかりえぬものだとしても、「行動を起こすきっかけ」の一つとしては存在してもいいように思えた。
それを言い訳に使ったりするのはダサいけど、そういう気持ちが湧くことも確かにあるだろうから。
言い訳というのは、「自分で決めたんじゃない」とすることだね。
*
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
「正義は暴走しないし、人それぞれでもない」という帯の言葉に惹かれて読んでみました。
「正義」や「公正」について思考してみたくなる本です。
気になった方はぜひ読んでみてください。
noteの感想もコメントいただけるとうれしいです。
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日々の出来事や湧いてきた感情を、デッサンするように書いたものです。 2024/4月のデッサン。
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