「noteを書く」というプロセスにて
「書く」に限らず、「何かを表現できる」というのは、恵まれたことなのだと思う。
誰もが発信者の時代、とも言われるが「発信が分からない」という人もいるのではないか。
これは、どうやってフォロワーを増やすかというようなアプローチ法の話ではなく、「発信とは何であるか」が分からない、分からなくなっている人の話だ。
表現と発信では少しニュアンスが異なるが、「外側に向けて表す」という点は同じである。
映画「プリズン・サークル」の中で、
という言葉があった。
死んだふりをして、自分を隠して、そうしなければ生きのびることができない。
その人にとって、「自分を表すこと」とはどんなことなのだろうか。
人の内側、目に見えないところと、外側、目に見えるところは繋がっているのかもしれない。
しかし、その繋がりを引き離そうとすることで生きようとする人もいる。
「幸せなら態度で示そうよ」と歌うように、内側にあるものをストレートに外側に表せることは素敵なこと。
それはそうだと思う。
しかし、そうではないのが素敵ではないことだとは思えない。
誰しも「自分」でいたいのだと思う。
たどりつくという表現がもうすでに切ない。
しかし、「作られた自分」がいつしかできていくのなら、それを削り、「自分でいよう」「自分を表そう」としていくこと。
その過程はやっぱり切なくて、苦悩するものだけれど、その過程にいるのはとても勇敢なことだ。
自分を隠さなくていいとは容易く言えないけれど、自分を表してもいい。
そう思う。
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