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漂うことも楽しみたい

「口の立つやつが勝つってことでいいのか」を読みました。

「暴力はダメ、話し合いで」

小さな頃からよく聞いた言葉ではないでしょうか。
著者の頭木さんは口が立つ子どもだったそうで、このことについて

これじゃあ、腕力が強いほうが勝つのとなんにも変わらないじゃないか。口が立つほうが勝つだけだ。こんな理不尽なことでいいのかと思った。

そうです。
では、暴力で決着をつければいいのかというと、もちろんそうではありません。
「話し合い、口が立つ人が勝つ方法は絶対に正しいと言えるような方法ではない」ということです。

「わかる」ことがいいことだから、「わかりやすさ」もいいことで、それは求められ、求めていること。
それはそう、なのかもしれません。
「わかろう」とすることで見えてくるものは確かにあると思います。
でも、「わからなくてもいいじゃない」とも思います。
それは諦めているわけではなく、「わかり合えない中にも魅力がある」ということです。

昨日の記事でも書いたのですが、何かを「絶対に正しい方法」だと決めてしまうと、そこ以外にある可能性を捨ててしまうのではないか思います。
どっちつかずの態度はずるいのかもしれませんが、可能性があるものを見捨ててしまうのも勿体無いと思います。

どっちつかず。
自分の中にもどっちつかずのものがあるな、と思います。
本の中に、『僕とオトウト』という大学生の兄が知的障害のある弟との関係を撮ったドキュメンタリー映画が登場しています。
兄は、

「せつないとか、かなしいとか、かわいそうっていうのが、差別にあたることかもしれないというのは、自分の中にもあるし、人から言われたこともあるんですけど、でも、さみしいもんはさみしいし、かなしいもんはかなしいし、せつないもんはせつないんですよ。ダメとかダメじゃないとか、視点がちがうとか、そんなの知らねえよって」

と言います。

湧き上がってきたものを、頭で処理して、整えてから放つ。
そうして放たれたものの中に、湧き上がってきたものは含まれているのでしょうか。
湧き上がってきたものこそが大事で、それをそのまま放たないと意味がない、と言いたいのではありません。
ただ、湧き上がってきたものを無視して、無かったことにして、整えられたものだけにしてしまうのは、さみしいです。
どっちつかず、ですね。

人は誰しも自分の中に「ジャッジ」があるのだと思います。
僕のジャッジがあり、あなたのジャッジがある。
それは一人ひとりちがうかもしれなくて、それぞれの線につまづいたり、線を溶かしあったりして生きているように感じます。
わかり合えなくても、どっちが正しいのか迷っても、大丈夫。
その揺らぎを止めてしまうのではなく、漂うことを楽しめたらと思います。

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