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教えるつもりが教えられた話

腹痛が痛い、黒が光を吸収する

「腹痛が痛い」。一瞬、ん? と思う。腹痛という言葉にはすでに「痛い」という意味が含まれているのだから、「痛い」が重なるのはおかしい。こんな重言(じゅうげん・じゅうごん)は、言葉の無駄と言われるだろう。

子供が「黒は光を吸収するんだって!」と目を輝かせながら言ったとき、その無駄のように思える重言が、ふと頭をよぎった。「黒」というのは、光が吸収されて反射しない状態だ。つまり、「光を吸収するモノ」を黒と呼ぶ。ならば「黒が光を吸収する」というのは、「光を吸収するモノが光を吸収する」と言っているに等しい。これは重言ではないのか?

理屈を考えれば、そうだろう。でも、言葉には理屈を超えた役割がある。それは、知識を正確に伝えるだけでなく、誰かの心に真っ直ぐ届くための柔らかい器でもある。

「パパ、黒は光を吸収して、白は光を反射するんだって!」
その言葉には、子供が初めて知った世界の法則が、少し誇らしげに詰まっている。頭の中で「うん???それって…」と訂正しそうになったが、言葉を飲み込んで、「あ、そうだね。光について習ってるんだね」と返した。

子供が知識を得る瞬間は、真理に触れたという実感が何よりも大切だ。正確さよりも、その学びを肯定することが、次の学びへの扉を開く。「腹痛が痛い」と同じように、多少の重複や不正確さがあっても、気持ちを伝えるには十分なことがある。


考えてみれば、現代社会では「黒」という言葉の正確な定義はあまり意識されていない。光学的には、光を吸収する状態を黒と呼ぶが、多くの人にとって黒は単なる「色」として捉えられている。科学的な正確さよりも、日常の直感的な理解が優先されるのだ。

理科の授業で教わる「黒が光を吸収する」は、子供にとって分かりやすく、シンプルな真実だ。それをいちいち「いや、光を吸収するから黒く見えるんだよ」と正していたら、学びへの興味がしぼんでしまうかもしれない。学びの初めは、多少の重言も、多少の曖昧さも、未来の正確な理解への種だ。

「腹痛が痛い」という言葉に、痛みが二重に込められるように、「黒が光を吸収する」にも、学びの喜びが二重に込められている。間違いや重複すら、知識への扉を開く鍵になる。

親として、その扉を閉じてはいけない。正確さを教えるのは後でいい。今はただ、光と色の不思議に目を輝かせる子供の姿を、大切にしたい。

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