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『The Catcher in the Rye』 ホールデンと孤独
はじめに
こんにちはホールデンです。
私は J.D.サリンジャーの代表作『The Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)』という小説を何度も繰り返して読むほどとにかく愛していて、ペンネームであるホールデンも今作の主人公であるホールデン・コールフィールドから取っています。
そんな『The Catcher in the Rye』をnoteで最初に語るテーマに選びました。
『The Catcher in the Rye』の魅力
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。
読者に直接喋りかけてくる形で始まる今作は、クリスマス前のニューヨークを巡る、17歳の少年ホールデン・コールフィールドの社会に対する鬱屈を口語的な文体で描き、その社会に対する不満精神により当時はベトナム戦争から帰還した若者たちから支持され 今もなお世界中で愛され続けています。
そんな今作ではホールデン以外にもかなり個性豊かなキャラクターが登場するのも魅力。小説という括りで見れば登場人物が少ない方ですが、ガサツで汚らしいアクリー、ハンサムだけどナルシストなストラレイダーなどみんな少しずれていてそんなところが愛おしく人間味が強く描かれていて、だからこそ彼らに放つホールデンが放つ鬱憤がより心に残るものになっていると思います。
崖っぷちという孤独
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
私が今作を初めて読んだのは中学3年生で、当時反抗期や厨二病などもあって大人という立場に懐疑的な時期というのもあり、ホールデンに自己投影するように読み入りホールデンの文句一つ一つに共感が湧き巡りてっきり今作の虜になったわけです。
今年に入って私はもう大学生になり、もういつの間にかホールデンより年上になっていました。長らく小説に手をつけていなかったので久々に『The Catcher in the Rye』を手に取り読み返すことにしました。
しかしいくら読んでも共感するどころかホールデンのどうしようもない子供っぽさに呆れるばかりで、あんなに自己投影して共感していたホールデンは何処へ行ってしまったのやら。
それもそのはず。私はもうクレイジーな崖っぷちから脱却していたのです。
でもホールデンはまだそこにいる。17歳なのに。
これが『The Catcher in the Rye』を大人になって読み返す怖さです。
ひたすらホールデンと共にまともな大人がいない世界を歩んでいたはずなのに、いつの間にかホールデン一人を置き去りにして、いつの間にか第三者の目線で彼を見つめているのです。
ホールデン・コールフィールドが達観して立ち続けていた崖。
それはただの孤独だったのです。
ライ麦畑のキャッチャー
僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになっている子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく表れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。
誰にだって孤独感や喪失感はあると思います。
でもそれを孤独のまま終わらしてしまうと一生負う傷になるでしょう、だからこそ孤独を抱えたままキャッチしてくれるキャッチャーの存在が必要不可欠なんです。
ホールデンは作中崖っぷちから落ちた子供をキャッチするキャッチャーになりたいと語っていますが、他人をキャッチするどころか自分がもう崖から落ちていることに気がついてない。いや気がついてるのかもしれないけど誰かに気づいて欲しいのではないだろうか。
「ねえ、さっき言ったことは本当?どこにも行っちゃったりしないってこと。このあと本当におうちに帰る?」と彼女は僕に尋ねた。
「うん」と僕は言った。本気でそう言ったんだ。でまかせを言ったわけじゃない。実際そのあとうちに帰ったわけだしさ。「さあ、急がなくちゃ」と僕は言った。「もう動き始めるぞ」フィービーは走っていってチケットを買い、ぎりぎりのところで台に飛び乗った。それからぐるっと歩いてまわって、お気に入りの馬をみつけ、それに乗った。
彼女は手を振り、僕は手を振り返した。
でもそんな孤独なホールデンをキャッチしてくれる人がいます。
フィービー・コールフィールド そうホールデンの妹です。
「誰だってあの子には参るだろう――センスのある人なら誰だって」
フィービーはホールデンがほぼ唯一心を許している人物であり、敬愛してやまない人物です。ホールデンがフィービーのために買ったレコードを酔っ払って割ってしまった際、フィービーはそのかけらをそっと大事そうにしまうようにお互いを大事に思い合っているのがしみじみ伝わります。
フィービーはどこか大人ぶっていて、ホールデンが街を出ると行った際には私も行くと言わんばかり家から引きずって荷物を持ってくる可愛さ
ホールデンもホールデンに自己投影している読者もフィービーという存在が崖っぷちにいる私たちをキャッチしてくれているように思えます。
フィービーがぐるぐる回り続けているのを見ているとさ、なんだかやみくもに幸福な気持ちになってきたんだよ。
あやうく大声をあげて泣き出してしまうところだった。
僕はもう掛け値なしにハッピーな気分だったんだよ。嘘いつわりなくね。
どうしてだろう、そのへんはわからないな。
雨の中ニューヨーク セントラルパークのメリーゴーランドに乗るフィービーを眺めてホールデンが放った言葉。 今まで誰にも分かり合えてもらえず孤独感に苛まれていたホールデン。でも自分の最も近くにいたフィービーは純粋に自分を受け入れキャッチしてくれた。今までホールデンの中にあったぐちゃぐちゃな感情が雨で流れ落ち、フィービーによって幸福という一つの感情を噛み締める。
キャッチャーになりたい。そう言っていたホールデンだが本当は誰かにキャッチして欲しかったのだろう。そんなどうしても感情を裏返して表現してしまうホールデンが愛おしく、憎めない。
『The Catcher in the Rye』と社会
1980年12月8日元ビートルズのジョン・レノンはセントラルパーク・ウェストにそびえる超高級アパート、ダコタ・ハウスへの帰宅途中、精神錯乱の25歳の男マーク・デイヴィッド・チャップマンが至近距離からレノンに4発の銃蝉を撃ちこんで殺害した。
そしてチャップマンは静かに歩道にすわりこんで、ポケッ卜から本を取り出すと、まるでなにごともなかったように読み出した。
1981年3月30日、ロナルド・レーガン大統領の暗殺未遂事件が起きた。
ジョン・ヒンクリー・ジュニアという精神異常者が、女優のジュディ・フォスターの関心を惹こうとして、大統領、大統領報道官、ガードマンを撃ったのだ。幸いレーガンは負傷だけで済み約3週間後には公務に復帰している。その後警察がヒンクリーの泊まっていたホテルの部屋を捜索したところ、
彼の所持していた10冊の本を発見した。
これらにはある共通点がある。
それはこれらの本というのが『The Catcher in the Rye』なのである
これはぼくの声明だ。ライ麦畑のキャッチャー、
ホールデン・コールフィールド
『The Catcher in the Rye』はその汚い言葉遣いや内容によって人々の内面にある凶悪生を引き出し、殺人者を量産しかねない危険な本という烙印を押され、アメリカでついに禁書という扱いを受けるのであった。
そんなこともあってか世間ではさまざまな憶測が飛び交うようになります。
その一つがJ.D.サリンジャーはとても気難しい人物だという物でした。
そもそもサリンジャーは『The Catcher in the Rye』以降 表舞台から姿を消し全く姿を見せなくなったのです。
それもあってか勝手な憶測が飛び交うようになってしまったのです。
このような噂もあって『フィールド・オブ・ドリームス』では隠遁中の気難しい小説家テレンス・マンはサリンジャーがモデルになっています。
でも実際 サリンジャーはとても社交的な人物で、隠遁中ご近所さんのパーティーに参加したりするなど、とても和やかで優しい人物だったそう。
実際 実話に基づいたJ.D.サリンジャーと彼のファンを結ぶ窓口係となった作家志望の女性を描いた青春奮闘記『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』では優しい口調で電話をするサリンジャーが描かれています。
最後に
こうして『The Catcher in the Rye』について書いているとまた読み返したくなってくるのも魅力の一つです。
誰の中にもホールデンは潜んでいて、誰にだって不満が募ったり孤独感に苛まれることがあります。それはチャップマンやヒンクリーにも共通することです。でも彼らとホールデンにはとても大きな違いがありました。
それはフィービー そうキャッチャーの存在です。
誰にだってクレイジーな崖っぷちに追いやられることだってあります。そして誰にだってフィービーのようなキャッチャーの存在がいます。
それは本当に誰にだっているのです。ホールデンだって最初は気づいてなかったかもしれない でもひょっとした出来事でフィービーがキャッチャーであることに気づいたんです。
チャップマンやヒンクリーには気づかなかったその差は天と地のように違います。これが今回私が強く伝えたかったことです。
私も辛い時期ホールデンのようにライ麦畑を彷徨い歩き、崖っぷちにひたすら立たされているように常感じていました。
でもふと崖から落ちた時 意外と身近な存在がキャッチしてくれるものです。
そんな私をキャッチしてくれるライ麦畑のキャッチャーのおかげで今の自分があると思います。
今もしあなたがライ麦畑を彷徨い歩き、崖っぷちに立たされているのであれば、一度その気持ちを吐露してその崖から落ちてみるといいでしょう。
意外で身近な人物がキャッチしてくれるはずです。
長々となりましたがこれで私の『The Catcher in the Rye』の語りはこれで終わりです。最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。ちょっとでも印象に残っていると幸いです。
10年後20年後あるいはもっと先、『The Catcher in the Rye』を読み返すと今とはまた違った視点でホールデンを眺めることができると思うととても楽しみに思えます。
その時にはまた新たなライ麦畑のキャッチャーが自分をキャッチしてくれることを願います。欲張りを言えば自分自身が誰かにとってのキャッチャーになっていればものすごく幸せなことでしょう。
あなたにとってのライ麦畑のキャッチャーはどんな人ですか?
ご清覧いただきありがとうございました ホールデン