夜の錬金術師
私が社会人に成り立ての頃、飲み会の翌日は、いつも戸惑っていた。心が通じ合うことがないと思っていた職場の人たちに、酒の席で急接近して、仲良く楽しんだのに、夜が明けたら魔法が解けてしまうかのように、なかったことになっていた。
その空虚な気持ちを、独り噛みしめながら、この感覚は何かに似ているなと思った。それは、一気に恋が醒めてゆく時だった。
夜とお酒は、人を魔法にかけて本物を覆い隠す。だが、そのベールは陽の光にあたれば、霧散するのだ。恋も同じ様な瞬間がある。
夜と音楽の力を借りて、錬金術のようにその人のためだけのお酒を生み出す場所が、バーだ。バーでかけられた魔法は、翌朝になっても深い余韻となって甘い夢のように残る。
私は、会社の上司に教えてもらった夢の様なバーが、果たして本当に存在したのか不思議になり、昼間に確かめに行ったことがある。それらは当然ながらそこにあったが、昨夜見たものとはまるで違っていて、砂漠の中に佇んでいるような気分に陥った。
しかし、一軒どうしても昼間に見つけられないバーがあった。
夜の帳が降りた頃、再び探しに行くと、突如それは砂漠のオアシスのように現れた。それを見つけたとき、私は蜃気楼を見ているかのような錯覚に襲われた。
条件が揃わないと、姿を現さないバーがあるらしい。
本書は、そんな雰囲気を持ったバーのマスターと、その常連、そしてバーに引き寄せられて入って来た客、21名の恋の物語である。
これから始まる恋、一瞬の恋、愛に変わった恋、死別により失った恋、不倫の恋等、様々な恋の形がある。一つの恋はいつか酔いが醒めるように、そっと消えてゆく。
忘れられぬ恋を客はバーで語り、マスターからそれにぴったりのお酒と音楽を贈られる。その過程で、客は恋を輝く思い出に昇華させてゆくのだ。
バーのマスターとは、作るお酒と引き換えに、夜空の星々の恋物語を知ることとなる錬金術師のような気がしてならない。
ー了ー
※本noteは、林伸次さんの『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる』の文庫版の発刊にあたり、募集されている解説文として書いたものです。
とても素敵な小説を書いて下さった林伸次さん、本当にありがとうございました。
多くの思い出と共に、人生の整理をすることができました。
本書は、noteで音楽と共に公開されており、本も出版されています。是非、多くの方々にこの素敵な世界を味わって頂ければと思います。