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枕元の明恵

かつて、私にとって苦手な人を描いたら、それは完全に祖父の姿になった。
私の苦手であった物事のひとつひとつは、祖父の断片であった。
祖父は、女と酒とタバコが好きで、短気で、意地悪で、口が悪く、嘘つきで、それでいて豪快で、読書家で、物知りで、賢かった。

私が小さかった頃、祖父が何回も何回も聞かせてくれた話は、第二次世界大戦の出征前の、訓練の話だった。
訓練所周辺の畦道をランニング中、仲間たちとふざけあっていて、そのうちの一人が、肥溜こえだめ(昔は糞尿を発酵させて堆肥化する場所があった)に落下した。サーベルを差しのべて救出したが、とんでもなく臭く、きゃっきゃ騒ぎながら近くの水路で汚物を洗い流していたところを、上官に見つかってしまう。
その後、横一列に並べさせられて、全員、サーベルで頭を殴られ、前頭部から後頭部にかけ、一直線にたんこぶができたという。

一般的に子どもは、汚物の話が大好物だ。私も例外ではなく、それを聞くたびに、いつも笑い転げていた。
だが今思い出すと、なんだか寂しい気持ちになる。
祖父たちの姿には、まだまだ少年らしいあどけなさや幼さや欲求を感じて、同じ年頃の仲間たちと遊んだり、勉強したかっただろうに、と思う。

日本での訓練の後、祖父はミャンマーに送られ、インパール作戦を生き抜き、帰国することとなる。

祖父は肥溜めの話をした後、殴った上官や落ちた仲間に対してだけでなく、決まってあるモノに対して罵倒する言葉を吐いた。
それは、敵国とされている国に対してではなかった。
たとえ国の違う敵とされている相手であっても、戦争をしたい訳ではなく、祖父たちと境遇は同じで、敵ではない。
一体、祖父たちは誰と戦っていたのだろう。

生前、祖父が好きだったことは、寺巡りだった。
だが、祖父は、神も仏もあったものじゃないくらい、信心深くなく、やりたい放題に生きているように私の目には映っていた。

祖父が亡くなって、遺品整理をしていた母が、祖父の布団の中の枕元から見つけた本が『明恵上人』という本だった。
明恵とは、鎌倉時代の僧侶である。
白洲正子をはじめ、明恵のことを記した作家は多くいるが、誰が著した本だったのか、記憶にはない。
なぜ、明恵だったのだろう。

縁があって、京都の近郊に仕事で配属となった時、これはチャンスと寺巡りに励んだ。
無論、私も全く信心深くない上に、歴史にも疎い。
だが、遥か昔の仏師によって彫られ、僧侶によって開眼された仏像たちには、私が今日ここに来ることが分かっていたかのような、あたかも全てを見透かされている威圧感があった。
戦争で没した仲間たちの供養のために祖父は寺を巡っていたと思っていたが、本当は己の心の弱さに対峙し、対話するために寺を訪れていたのではないかと考えるようになった。

祖父のことを私は、ホラ吹きじいさんとも思っていた。でも、足跡をちょっとずつ辿ってみたら、そうではなかった。
それは、noteをとおして知ることも多かった。

noteには、様々な出版社や、その編集に携わる方々がおられて、実にたくさんの書籍が紹介されている。
それらのいくつかの本を実際に読んでみると、祖父が言っていたことが間違ってはいなかったことを知った。

先日、図書館で新刊本のコーナーを眺めていたときに、たまたま目に入ったものがあった。
梓澤要さんの『あかあかや明恵』だ。
本書は、こう紹介されていた。

僧も俗人も、「あるべき様」を保つべしーー。
名刹での栄達に背を向け、身命を賭して仏の教えに肉迫しようとした傑僧の生涯。
武家に生まれた明恵は、八歳で父母を亡くし、十六歳で出家。その学才を見込んだ東大寺、神護寺などからの要請を断る一方、釈迦のご遺誡を体現するために右耳を切り落としさえし、人里離れた山奥で修行しながら、自身が見た不思議な夢を『夢記』と名づけて四十年にわたり書き留めた。承久の乱で朝廷軍をかくまい、その教えに打たれた幕府軍の総大将・北条泰時が後に帰依したことでも知られる、華厳宗中興の祖の生涯。

 梓澤要『あかあかや明恵』新潮社 あらすじより

これは必読の書と、いざ借りて読んでみることにした。

本書は、明恵の庵の前に捨てられた架空の孤児で、後に従者となるイサの目をとおして語られる、明恵の史実に基づく生涯である。

明恵は霊力や知力、非凡な才能や、釈迦に近づくためのストイックさ等を持ちながらも、教団を創ることなく、いたって質素に、平凡であることを大切に、『あるべき様』に生き抜いたという印象を受けた。

明恵の教えの『あるべき様』とは、心の赴くままに好き勝手に生きるということではなく、常に今、自分がなにをなすべきかを自身に問い、それに従って生きる、ということだ。
明恵は、乱世という時代背景や、神によって天竺ゆきを断念せざるを得なくなっても、それらに翻弄されているようには決して見えない。
それは、『あるべき様』、つまり身の振り方を常に変化させているからではないだろうか。

ところどころに散りばめられたエピソード、例えば山に籠って修行中にお腹が空きすぎて、寺の工事をしに来ていた者の弁当を明恵が盗んで食べたとか、どこに籠っているか分からない時は、鳥たちの姿を追えば、明恵の居場所が分かるとかが、すごくキュートである。
また、明恵の、自分は怠け者だから独りで修行は向かないといって、釈迦の教えに従い、四人以上の小さな団体の中で、毎日のルーティンを崩さずに着実にこなそうとするのも、俗人である私と同じ様子がうかがえて、共感できる。

死を目前に控えた明恵の言葉は、胸に深く響く。
『重罪に処される十悪が国中に充ち溢れ、賢者が失望して世を捨てる時は、山も川もすべて汚濁おじょくにまみれ、国も本来の国ではなくなる。それゆえ、今は仏の教えも本来の仏の教えではなく、俗世間の法も本来の法ではない。見るにつけ聞くにつけ、そればかり気にかかるが、しかし、それにこころを留めて悩むのは執着しゅうじゃくであり、すべきことではない。それゆえ、今が死ぬのによい時である。死ぬことは、今日が終われば明日へ続くのと違いはなく、ひとつづきなのだ』

明恵は、他者の生き方を否定も肯定もしない。そして、宗派の違う宗教も否定も肯定もせず、良いところをとればいいと言う。

私が生きている世も、ウソとホントウの境のない、汚濁にまみれた場所であることは間違いない。
それでも、私は『あるべき様』に生きてゆくしかない。

明恵を少し知ったとき、祖父は全く誰にも語ることなく明恵のように『あるべき様』に生ようとし、それを実行していたことを知った。
そしてそれは、美しいと思えた。

そうすると、否定的に見ていた祖父の全てが大したことではなかったと肯定できるし、私が孫の中でなぜか最も愛されていたことも自慢に思えるし、祖父と同じ土木技師の道に進んだことも、全く後悔していないと胸を張って言える、そんな気がした。

(完)


本記事を書くにあたって、参考にした書籍は以下のとおりです。


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