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君たちはどう生きるか

私の仕事は、年度末が繁忙期になる。
だから、ちょうど今、山のように仕事が積み重なっている。
以前は、血反吐をはきそうと思いながら、すごい勢いで働いていたけれど、終わらせることができるという妙な自信がある今は、緩急つけて、のらりくらりこなしている。

とはいっても、設計方針が急に変わることもあったりして、ドタバタしている。
先日は、できあがった設計の見直しをしていたら、重大なミスを発見した。焦ったその瞬間、コップを倒し、机の上をお茶びたしにしてしまった。
慌てるほど、負のスパイラルに陥っていたその日、友人のMIKIちゃんから、MIKIちゃんの子どものTAOちゃん(6歳)の手書きの絵が印刷された、はがきが届いた。

MIKIちゃん、TAOちゃんから届いたはがき

昨年の夏、ふたりは3ヶ月ほど、アジアを旅している。この絵は、その時、もしくは、未来のふたりの様子を描いたものだと思う。
TAOちゃんの絵は、ますます上手になっていた。この子は、きっと、世界と日本をつなぐ素晴らしい人になるだろう。

MIKIちゃんは、ハガキに『今日Happyだったこと3つ思い出してみてね』と書いてくれていた。
悲惨に思えたその日、振り返ってみると、よかったことが結構あった。
ひとつ:こぼしちゃったけど、温かいお茶が飲めたこと
ふたつ:水回りが問題なく全部使えたこと
みっつ:今日も健康で、ご飯が美味しかったこと
もっとあった。
結局、人生は数えてみたらHappyなことの方が多いはずだと思う。

子ども絵画教室の先生をしているMIKIちゃんは、かれこれ1年以上アトリエの改修工事を自身の手で行っている。時々、知り合いの力や、事故などがないよう手数に時間もかかると思いつつ、子どもたちの手を借りる。
そんな生活をみていると、まるで宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』の魔女、銭婆ぜにーばみたいだな、と思う。

銭婆は、強い力のある魔法が使えるにも関わらず、『魔法の力で作ったって何もならない』と、丁寧にひとつひとつを皆の手で紡ぎ、質素でこだわりのあるオシャレな生活を大切にする。
千尋は、湯屋での仕事や、そんな作業の経験をとおして、生きる力を呼び覚まし、生き抜く力や自信へと変換する。
これは、テクノロジーがいくら発展したとしても、その技術に頼らず自分たちの力で立ち上がり、生きていかなければいけない問題に向き合いつつある現代人へ、宮崎監督から提示された解決策ではないかと思う。

さらに、宮崎監督の作品で、必ず描かれているものは、争いである。

社会学者の安立清史九州大学名誉教授は、『千と千尋の神隠し』を『戦争に対して戦争で応答するのではない道を示唆している』と、評している。
一方、最新作の『君たちはどう生きるか』は、『いかに「正解」のない世界の中で踏みとどまり持ちこたえられるか』を『問う』ているという。
その中で、『自分の中の悪意や弱さを正直に見つめられる存在』になり、『上から教えられた生き方ではない、自分なりに苦しんで見つけた解や生き方』が大切だ、という。

また、宮崎監督の映画の中で、私は一貫して存在し続けるテーマだと感じ、幼い頃から疑問に思い続けていることがある。
それは、立場や正しさの価値観の違いで敵対している人々が、分かり合えて共に生きる道はないのか、ということである。

つい最近観た、野村萬斎さん主演の映画、『花戦さ』の中には、『自分なりに苦しんで見つけた解や生き方』と、敵対している人と共に生きるための方法が描かれていた。
本作は、豊臣秀吉の圧政の下、苦しむ民衆たちを救い、亡くなった大切な人々を弔うために秀吉に戦いを挑んだ、実在の花僧、池坊専好を描いたものである。
専好は、千利休らを失い、花を生けることができなくなる等の苦しみを経て、秀吉と戦うのではなく、自身の命を賭け、華道をもって、個々の中に存在する美しさを理解してもらう、という戦法をとる。
生きとし生ける全ての動植物や、芸術の中にあるそれぞれ違った美しさを表現しながら、敵である秀吉自身が持つ美しさをも愛でることで、専好は鮮やかな勝利を収めるのだ。

芸術とは、あらゆる境を越えた言語になりうる可能性があり、それぞれの持ち味や特徴を活かし、様々な世界と対話し、調和をとりながら美しさを体現することができる。
それは、野村萬斎さんの、狂言にも通じる。
数年前、萬斎さん、お父様の万作さん、息子さんの裕基さんの親子3代での狂言を直接観に行く機会があったが、その時も、深くそう感じた。

医師である稲葉俊郎氏によると、すぐれた芸術は医療になるという。
『本来、人の体は競い争うために酷使するものではなく、体や生命の全体性や調和の在り方に感動し、感謝しながら、与えられたものを大切に使うもの』であるそうだ。
さらに、日本の古典芸能の世界では、その身体技法が大切にされており、現在もその知慧ちえが引き継がれ、残っているとし、古典芸能等の道を極めることは、『相手に勝つことではなく、偽りの自分自身に勝つこと』であり、『相手と和するように、自分と和していくこと』だという。

映画もまた、芸術である。
ある日突然、いい時期が来たかのように、かつて観た映画から今の私に必要な処方箋が提示されることがある。
ただそれを、様々な芸術的な感性を磨いたり、勉強したりしながら薬に変えることができるのは私自身をおいて、他にはいない。
そうして極めてゆくことが、遥か未来になるかもしれないいつか、私の生き方という、道になるのだと思う。

(完)


本記事を書くにあたって、以下の文献を参考にしました。
・安立清史『苦しんで見つけた生き方 「踏みとどまる」ヒント』(西日本新聞 R5.10.24)

本記事中の映画は、以下のとおりです。


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