映画『きみの色』の畏れと慄き
映画『きみの色』を観てきた。
地方の鬱屈がテーマの一つなのだが、四方を囲まれた京都や飛騨ではなく、長崎県という地域を選んだのは絶妙だなあと思いながら観ていた。山に囲まれてはいるのだが、海という脱出経路がある。しばらくは曲がりくねった湾や離島の間を進むとしても、その先は無限に広がっている。それが救済なのだ。
長崎という土地で暮らすトツ子、きみ、ルイは、それぞれがそれぞれの実存的不安を抱えている、しかしその不安は、映画の中では一部分しか開示されることはない。それぞれの家族や人生に関わる事実も十分に明らかにはされない。
しかしこの物語は、おそらく謎が謎のままであることに意味がある。人間は誰にも知られぬ謎、実存的な罪の意識を抱えたまま、人と繋がり合うことができる。バンドの結成は、実存的不安と向き合う契機だが、不安を解消しない。その問題については、一人一人が単独で向き合うしかないのだ。
「ニーバーの祈り」の作者に大きな影響を与えたといわれているキルケゴールという神学者は、普遍的な倫理に従って生きることができない例外的な人間が抱える絶望をどうにかするには、単独者として神と向き合うしかないと言っている。
映画の中で描かれた秘密の共有と罪の意識、告白と和解のプロセスは、それぞれが抱えている本当の問題と向き合うための準備運動のようなものだ。ここで考察はしないが、3人は、それぞれ罪悪感を伴うような何らかの不安をその奥に抱えている。その本当の問題は孤独に解決されるほかはない。ラストシーンできみが投げかける「がんばれ」という絶叫は、ルイに対しても自分に対しても、それ以上のことができないという悟りであり、それでもなお叫ばずにはいられない感情の発露でもあろう。
蛇足ながら付け加えておくと、この実存的不安、特に作中で全面的に開示されることはなかったきみの鬱屈と振る舞いについて、「順番を間違えたかもしれない」という惑いも含め、あの事件以降の監督である山田尚子の動向と重ねて解読することは批評的観点からは許されよう。
しかしこの映画は、そうした野暮な考察をクールにシャットアウトする爽やかさを有していることも事実である。