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何者でもなかったけれど…

 「ここは退屈迎えに来て」という富山を舞台にした2018年公開の映画がある。

 原作は山内マリコさんの同名小説である。

 劇場公開されて2年後に観た。富山が舞台と言っても、名所や方言などの地方色を強く推す感じではなく、富山は典型的な地方都市のひとつとして描かれていた。

 上質な作品であるものの地味な映画で、さしたるヒットはせず、評判もごく平均的なものだった。

 なのに、自分でも驚くほどこの映画に強く惹かれた。

 富山に個人的な思い入れもない、特別好きな俳優も出演していない、感情移入できる配役もない。

 ないない尽くしなのに、なぜこんなに魅了されたのか自分でも不思議だった。

 好き嫌いではない違う何かが琴線に触れているようだった。でも、それが一体何なのかが分からない。こんな感覚は初めてだった。

 この映画は、観る人に何を伝え感じてほしかったのか。

 それが何なのか分からなかった。

 この映画は、富山の何かを伝え感じてほしいがために制作されたものではない。閉塞感が漂う一地方都市で暮らす者たちの「青春後群像劇」である。 

 主人公たちと同じ三十路前、私は傍から見れば順調な人生を歩んでいた。にもかかわらず、私は「自分は何者なのか?」という疑問を持っていた。

 年齢的には青春が完全に終わっていても、精神的にはまだ青春の自意識過剰の状態が続いていた。

 結局、五十路半ばで「自分は何者でもない」という確たる答えを得て、自意識過剰の状態を終えるまで四半世紀以上の年月を要した。

 自分が何者でもないとはっきり分かった時、妙に冷静だった。一言でいうと「やっぱりな」だった。

 四十路で薄々は気付いていた。でも、五十路に入ってすぐには認めたくなかった。誰かが答えを出してくれるのを密かに待っていた。

 映画の主人公の「私」は高校3年生の時、「何者かになりたい」と言っていた。27歳の時には「いつになったら私は何者になれるんですかね」と言っていた。

 「何者」という言葉こそ、私がこの映画に強く惹かれたキーワードだった。

 自分と同じように答えを求めている人たちが、この映画のなかにいて、その心情が映画のコピーに如実に示されている。

 「青春の後にあるものは?」

 「こうじゃない」

 「ここじゃない」

 「みんな、こんなはずじゃ無かった」

 「それでも羽ばたきたい」

 「切なさも、悲しみも、すべて忘れられなくても」

 そんな想いを、みんなが胸に秘めて自分の人生を歩んでいるのだと、還暦を過ぎた今、強く感じている。
                 〈了〉

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