#38 違いがあるからこその安心を目指して
同僚の保育を見ていて、子どもにとってどうなんだろう?という関わりがあるとモヤっとすることはありませんか?
そもそもどう伝えたらいいか迷うといった場合もあれば、
といった背景から、職員同士でどのようなコミュニケーションを起こしていけばよいか、戸惑い悩むケースを聞くことがあります。
社会にはいろんな人がいる。
だから保育園にもいろんな人がいるべきである。
多様性や個性が尊重される時代。
だから保育士の多様性や個性も尊重されるべきである。
ここ数年、こういった主張をよく見かける気がします。
そう主張する方に意見を伝えると「周囲の人に”すべき”とは言ってません。ただ私が考えていることです。」と返ってくることがありますが、それっぽく包んでいるだけで中身が「〜すべき」になっていることは潔く認めた方がいいんじゃないかなと思います。主張するからには他者からの批判や反論に開かれていてほしいものですが、何らかの抵抗があるのかもしれませんね。(非難、誹謗中傷とは別です)
また、「べきおばけ」などと表現され注目されたことで、「〜すべき」「〜しなければならない」はあまり使わない方がいいと感じている方もいるかもしれません。
私は、固着した価値観にとらわれる「こうあるべき」は手放した方がいいけれど、望ましい過程や結果につながる「するべきこと」はあっていいと思っています。
保育者として、すべきこと、しなければならないことには誠実に取り組んでいきたいものです。
話が逸れましたが、「いろんな保育者がいた方がいい」のような耳触りのいい言葉は扱い方に注意が必要なので、今回は保育現場における保育者の多様性の尊重について探究していきたいと思います。
ここを丁寧に扱わないと、自身の不適切さに無自覚な人の安心安全ばかりが担保されて、無意識の影響にも注意を払って場の意図と自分の意図に向き合おうとする人の安心安全が阻害されるケースが起こりやすくなるものです。
はじめに
私自身は、多様な大人と出会ったり関わったりする機会は子どもの育ちにとって大切だと考えています。
しかしそれは、ある条件が整ったうえでの話になるのはもちろんのことです。
そもそも一人一人「違いがある」ことが前提にあるので、どの保育現場もいろんな人が集っている場となっていますよね。
奇抜さや突飛な行動に着目した個性のとらえ方もありますが、他者から見て目立っていなくても、一人一人が独立した人格を持つ主体で、個性あふれる存在なことは言うまでもありません。
そして、子どもたちは、大人でも言語化するのが難しいくらいの保育者一人一人の微細な違いをしっかり感じて受け取っていると思います。
保育者のどんな多様さが尊重されるべきか?
厚生労働省の「保育所等における保育の質の確保・向上の関する検討会」の報告書には以下のような記載があります。
ここで私が重要だと思うのが、「行為の主体」のとらえ方です。
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保育は人生そのものだ!
私にとっての「保育」という存在にも向き合っていきたい。子どもにとっての「保育」も、保護者や社会にとっての「保育」も考えていきたい。その営み…
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