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ここに映画があるから9『落下の解剖学』

2024年3月劇場にて鑑賞。2024年11月 amazon primeにて無料鑑賞。
山小屋風の自宅の3階から夫が落下した。それは単なる落下事故だったのか、自殺だったのか、妻が殴って突き落としたのか。

春に劇場で観て衝撃を受けた本作。その時わたしの心の中では、転落の顛末について、モヤモヤしていた。どれだけ仔細に物語られても、何かがひっかかって最後まで首をひねっていた。

それでamazon primeで再度鑑賞。
もっと些細な表情も会話も見逃さないようにしよう。

オープニングは、山小屋の1Fリビングで若い学生(女性)からインタビューを受ける作家サンドラ。彼女はワインを飲み上機嫌で、学生に興味がある様子。上階にいて作業をしている夫サミュエルが、階下の会話を妨害するように大音量で音楽を流し始める。あまりの音量にサンドラはインタビューを中止し、学生が帰る。

そのあと、事故で視覚障害を負った息子ダニエルが、盲導犬と散歩に出かける。外は雪深くダニエルの歩みは心もとない。不安で観ている心がざわつく。ダニエルが雪で凍った橋を渡って散歩を済ませ、戻ってくるとサミュエルが家の前で血を流して倒れている。

サミュエルは死亡したが、検視結果では自殺か他殺か事故か定かではない。そこで彼女は弁護士ヴァンサンを呼ぶ。このハンサムな弁護士は、彼女のことが好きだったらしい。サンドラ巧みだなあ。弁護士はこの件を、サミュエルの自殺として扱いたいようだ。そんなことはないと言っていたサンドラも、半年前に夫が自殺未遂を起こしていたと言い始める。

彼女が語る二人の出会い、二人の関係。息子の事故のあと何年も小説を書こうとしても書けなかったサミュエルと、そのプロットを使って小説を書き成功したサンドラ。

彼女は作家だ。本人も小説中に「わたしの作品は事実とフィクションが密接につながっている」と書いている。裁判であきらかになったことだが、サンドラは夫の死を望む妻の小説を書いてもいる。観客は、次第に彼女の言っていることも、裁判も、この物語そのものも「事実とフィクション」の見分けがつかない不安に駆られる。

ダニエルはピアノで作曲する。それは重々しくて焦燥感に満ちた曲だ。これもまた、この映画の通低音となって人を不安にさせ、ダニエルのことをも信じられないものにする。

後半は法廷劇。法廷で、夫サミュエルが隠し撮りしていた夫婦の会話が流れる。夫婦の役割分担に不公平があるという夫の怒声、彼女の度重なる浮気のことなどひどい痴話げんかが聞こえる。

いやはやその内容がすごい。しかし実際どれだけの夫婦が、夫婦間の不公平を黙して生き抜いているのだろう?度合の多寡はあれ、ほとんどの夫婦はそうなのではないか。だから二人の罵り合いの切実さに唖然とする。こんな風に思いっきり言ってみたい。けれど、言ってしまったらすべてが終わるだろうとも思う。だからこそ普通の人はこの領域に足を踏み入れないのだ。そこへ踏み入るからこそ、サンドラは作家になれたともいえる。

しかしこんなことを聞かされて、息子は大丈夫なのか?
母子の関係は回復できるのだろうか?

ダニエルの証言直前の行動は、父親の自殺未遂を自力で再確認するものだった。それでも彼は母親が父親を殺したのか、自殺だったのか、判断がつきかねて悩む。

わたしは考える。ダニエルは嘘ではなくとも、自分の目の前で愛する父親が死に、法廷で両親の醜すぎる争いが公然と晒されたことが受け入れられなくて、「父の自殺未遂はあった」→「父の死は自死」という虚構を作り出しはしないのか?そうでなければ彼は、さらにひどい現実をつきつけられ、母を刑務所に収監され、すべてを失うのだからと考える。

だが更にダニエルは証言した。父親が「若くても死ぬことはある。覚悟しておけ。それでもお前の人生は続く」と生前言っていた言葉を思い出し、それを父の自死と結びつけて自分なりの結論を出したのだ。ダニエルは、父の死と裁判の日々を越えて大人になる。

(ああ、ここで、ダニエルの父との会話の記憶さえ、ダニエルが作り上げた虚構ではないかという謎は依然残っているのだが。)

裁判のラストでは、ダニエルが、父親の半年前の自殺未遂についてと生前の父親の言葉を証言し、これが決定打になって、裁判はサミュエルの自殺で結審する。

初見で考えていたこと
夫を自殺に追い込んだのは妻だ。サンドラは彼の死を見通していたし、用意していたと言える。それはある意味、殺人ではないのか?だから、サンドラは裁判後も自宅に戻るのが怖かったのでは?

サンドラは息子の事故の責任が夫にあると恨みをいだいていたし、書けない夫にかわって夫のプロットを利用し作家としての名声を得る。夫とセックスレスだからと複数人と浮気するし、その相手とは肉体関係だけで愛していたのは夫だけだと言う。自分は忙しいからと家事と育児の多くを夫に任せている。もめた時はかっとなって夫に暴力をふるっていたことも明らかになる。

裁判になるとわかったら、かつて自分を愛していた(今も愛している)人に弁護を任せる。判決が出て、裁判が終わった夜もすぐに息子の元に戻らず、その弁護士たちと酒を飲んでいる。彼女は自分の野心や欲望にあまりに忠実で、母性がないように見える。夫は自殺したけれど、妻が夫を自殺に至る必然に追い込んだ=ある種の殺人なのだろう。

2度みて考えたこと。

あれ?わたしの思考、ちょっと待った。
「妻が夫を自殺に追い込んだ=ある種の殺人」って違うかも。

立場が逆で、夫が妻のプロットを利用して名声を得て作家になり、妻とセックスレスだからと浮気し、でも愛しているのは君だけだという。自分は忙しいからと妻に家事と育児を任せっきりにして、もめると妻に暴力をふるっていたことが裁判で明らかになり、裁判が終わった日、すぐに自宅に帰らず飲んでいて息子に会わなかったとしたら?

実はそれってどこかでよく聞く話だ。だからそれが理由で夫が妻を自殺に追い込んだと断じる気にはなれない。

妻→夫
女→男
と立場を変えるだけで、人の受取り方が違う。そういう思考のクセは、案外自分では気づかないもの。わたしの性的役割分担のバイアスは、無自覚に発動していると気づかされる。

2回見て気づいたことはそのことだ。野心や欲望があり、自分が望むものを手に入れるためには、他のことに悪意なく無関心でいられる。そんな女性は、女性であるというだけで手ひどいバイアスを受ける。

例えば夫婦の前で子どもが泣く、その時「どうしたの?」と関心を持って声をかけ、話を聞いて配慮する。それを先にしてしまう人は、永遠に先にその役割を果たすだろう。そうしてケアの役割分担は固定化していく。それは年々強固になるばかりだ。気づかない側は、永遠に気づかないからだ。夫サミュエルが言っているのはそういうことだ。

この映画では、夫が子へのケアの固定化を語り、数値化できない家事を語り、妻はそれを理解しようとしない。そんなことは男女逆転すれば、フツーにあることだ。それを理由に彼女が彼を自殺に追い込んだモンスターだとは言えないはずだ。

劇場で字幕映画を見るときは、字幕を追うことが中心になり、表情を見逃すこともある。複雑で重層的な映画は何度でも見直すごとに新たな気づきがある。今年も映画を見よう、そして時間がかかっても考え続けようと思った一年のはじめ。

お読みいただきありがとうございました。



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