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ここに映画があるから2『アフターサン』

2024年11月 amazon prime配信にて鑑賞。
劇場で予告編を観て、「この映画観たい」と思っていたのに、同時に観たくなかった映画。わざと見逃したのかも。観たくなかった理由は、観てわかった。観ている間、ずっと苦しかった。忘れていた傷口が、ぱっくり開くような映画だった。

離婚した父と久しぶりに会う娘ソフィ。二人はバカンスを過ごすため、トルコのリゾート地にやってくる。ベルを鳴らしても、フロントマンがやってこないようなホテル。オマケに工事中だし。ベッドは1台しか準備されていない。父の手には白いギブスがはめられている。

観ていてなんだか心がざわつく。

父の手持ちカメラでとられた荒い映像は、近づけるだけ近づいて、陽光の下のソフィの丸い頬、得意げな表情をアップで映し出す。時折挟まれる不穏な音や映像のせいで、何かが起こる予感はずっとしていた。その何かは最後まで具体的に描かれなかった。けれど明確に描かれてもいたのだ。

例えば、親子なのに兄妹と間違えられるぐらい若い30歳の父。ダイビングの資格がないのにダイビングしたり、夕食を食べ逃げしたり、シケモクを拾って吸ったり。この父が「友達と新しい仕事をやろうとしてるんだ」なんて言っても、絶対に実現しないだろうと思わせるひ弱さがある。

父の挙動は幼い一方で、娘ソフィへの気配りは細やかだ。日焼け止めを塗ってやり、1日の終わりには顔にローションを塗ってやる。言葉遣いはいつも丁寧でやさしい。

明滅するライト。細いフェンスの上に仁王立ちになる父。いくら誘っても一緒に歌ってくれない父。どんどん夜の海に向かって歩く父。はしゃごうとしても、父の瞳の暗さにソフィの心にブレーキがかかる。それをみて気を取り直す父。ひとときの安堵と不安の間をゆらゆらと行ったり来たりする親子の感情に、どこまでも繊細に入り込んでくるカメラに胸が苦しい。

父と娘は何でもフランクに話しているように見える。仕事のこと、カノジョのこと、担任の先生のこと、淡いキスのこと。そして何気なく交わされる会話の一つ一つ、表情の一つ一つに意味があると全てが終わった後で気づく。

「この本を読んで」
「自分の身を守るんだよ」
「40歳なんて想像できない。30歳の自分に驚くよ」
「私の心のカメラに残すよ」
「僕には何でも話せると覚えていて」
「ソフィ愛しているよ、忘れないで」

家庭が不穏だった時期、わたしの母はひたすら殻に閉じこもっていた。母が食卓で、自分の指先を撫でながら俯いている時、心は別のどこかにあった。不安は感染する。突然母がいなくなったら?と考えるのは怖かった。その記憶がこの映画で不意に蘇る。あの時言えなかったけれど、私は本当にずっと不安だったんだよ、お母さん。。

子ども時代に親が占めている割合は大きい。大人になれば生きる世界が広がって、視野も広がる。親が占める割合は減ってくる。11歳のソフィはちょうどその狭間にいて、大人の世界をのぞき見て、性の興味に揺れている。同時に父親にぶら下がって抱っこしてもらい、眠るまで額を撫でてもらいたい、ちょうどそんな年齢でもある。

映画は、ホームビデオの映像、空港でソフィが手を振る別れのシーンで始まり、同じ別れのシーンのあと父がドアから出ていくところで終わる。31歳になったソフィが部屋で20年前の夏のホームビデオを観ていたのだ。いや、ドアから出ていくシーンはホームビデオにはない。これはソフィのイメージの中の父だ。永遠に出て行ってしまった父。

この映画が撮られることで、それを観ることで、誰かの記憶が呼び覚まされ、また癒されることを願う。

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