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東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [19]田端富士と芥川龍之介

久々に富士塚へ行ってまいりました!
今回の富士塚は北区田端にある田端八幡神社の境内の中にあります。我が家では毎年新年に谷中七福神めぐりをするのですが、最終の7つ目に訪れる東覚寺とうがくじというお寺の隣にこの富士塚があったことを今日初めて知りました!七福神めぐりはもう20年以上続けています。毎年すぐ隣に来ていたんだなあ!とびっくりしました。
特に表示もなく、情報をもちあわせていないと知らずに通り過ぎてしまいそうなくらいめだたない富士塚です。

今回は田端駅前にある「田端文士村記念館」もあわせてご紹介させていただきながらめぐっていきたいと思います。

田端文士村記念館:東京都北区田端6-1-2 電話:03-5685-5171 休館日:月曜・祝日の翌日・年末年始※展示替え等のため臨時休館することがあります 入館無料
現在の展示

明治22年、上野に東京美術学校(現・東京藝術大学)が岡倉天心おかくらてんしんにより開校されると、閑静な農村だった田端は徐々に姿を変えていきました。田端は上野と台地続きで便が良かったので、美術学校をめざし、学び、巣立った若者たちが田端に住むようになり田端は芸術家村のようになっていきます。
大正3年、当時東京帝国大学(現・東京大学)の学生だった芥川龍之介も田端に転入、5年には室生犀星も田端に移り住み、競うように作品を発表、名声を高めていきます。
やがて二人を中心に菊池寛きくちかん(小説家・劇作家・「芥川賞」「直木賞」の創設)、堀辰雄ほりたつお(小説家)、萩原朔太郎はぎわらさくたろう(詩人)、土屋文明つちやぶんめい(歌人)らも居を構え、大正から昭和初期にかけての田端は「文士村」となりました。

「田端文士村記念館」パンフレットより

この他にも田端に移り住んだ人物は数多く、わからない名前の方もいるのですが、私の知っている人をここに記させていただきます。
直木三十五なおきさんじゅうご小説家・早稲田大学入学時に上京し田端には1年余り暮らした。
野口雨情のぐちうじょう詩人・童謡、民謡作詞家大正9年に田端に転入。「十五夜お月さん」「青い眼の人形」「シャボン玉」など多くの童謡をつくった。
野村万蔵のむらまんぞう狂言師・昭和11年田端に転入。息子の野村万作なども田端で幼少期をすごす
小林秀雄こばやしひでお評論家・昭和4年田端に転入
サトウハチロー詩人・小説家・大正9年田端に転入。「ちいさい秋みつけた」など作成
田河水泡たがわすいほう漫画家・昭和4年田端に転入。「のらくろ」の作者・妻は小林秀雄の妹で作家の高見沢潤子。弟子に長谷川町子がいる。
竹久夢二たけひさゆめじ画家・詩人・大正10年田端に住んでいたモデルのお葉宅に寄宿。
林芙美子はやしふみこ小説家・大正13年田端に転入。「放浪記」で一躍流行作家になる
平塚らいてう 社会運動家・評論家・大正7年田端に転入。
二葉亭四迷ふたばていしめい小説家・翻訳家・明治37年約半年間田端に移住
柚木久太ゆのきひさた洋画家・大正4年田端に転居。二男は染色家の柚木沙弥郎

まだまだこの他にもたくさんの著名人が田端に住んでいました。田端が「田端文士芸術家村」といわれていたことがとても納得できました。

この田端文士村記念館では文士芸術家たちの原稿、書簡、初版本、絵画、彫刻、陶芸などを紹介しています。
また、芥川龍之介が暮らした田端の家は30分の1スケールで復元された模型で紹介されています。

1892年(明治25年)ー1927年(昭和2年)

芥川龍之介の作品は有名なものがたくさんありますが私はあまり多くを読んだことがありません。しかし「杜子春」や「蜜柑」などはとても印象深い作品として心に残っています。

東京帝国大学に通う学生だった芥川は大正3年両親とともに田端435番地へ新築転入しました。同5年に「鼻」が夏目漱石に激賞され、卒業後は「芋粥」などを文芸誌に発表しました。そのころから新進作家として文壇に登場していきます。その後教員生活と並行して新聞紙上で文筆活動にも精を出し、鎌倉、横須賀などにしばらく移住しましたが、同8年、筆一本で立つことを決意。再び田端に戻り創作に邁進まいしんします。名声が高まるにつれ書斎には訪問客が増え、近くに暮らしていた室生犀星、久保田万太郎らの文士、小杉放菴、香取秀真らの芸術家たちとも行き来を重ねるようになります。田端時代の交友関係は「田端人」「田端日記」「東京田端」などの作品で描かれています。
人好きのする下町気質を存分に発揮し、芸術の分野や年齢にとらわれることなく交際を求め、田端文士芸術家の中心となった芥川は田端の「王様」と形容される存在となりました。
しかし、昭和2年7月24日「唯ぼんやりした不安」という言葉を遺して自ら命を絶ちました。35歳でした。
忌日は「河童忌」と呼ばれています。

館内パンフレットより

また、北区では令和8年度この家を芥川龍之介記念館(仮称)として開館することを目指しています。現存する資料を基に可能な限り忠実に芥川が暮らした家の中を再現し、来館者は再現された書斎にたちいることができるとか!その建設予定地にも行ってみました。

龍之介が大正3年から亡くなるまでのほとんどを過ごした田端の家は約193坪(約640㎡)あったようです。
こんな感じになるようです!

この場所のすぐ近くに看板をみつけました。

なんだか改めて芥川龍之介の作品を読んでみたくなってきました。


さて、田端の富士塚はここからもうすぐ近くにある田端八幡神社の中にあります。
下の写真で左側の階段をのぼると八幡神社の本堂で、右側にある緑色の鳥居が富士塚です。

「田端山元講」の石碑もありました。
いうなればこれが富士塚の目印となる唯一のものではないかと思います。
おそらくこの祠が奥宮ではないかとおもいます。小さいながらもしっかりと溶岩もあり、少し登れるような形状をしています。富士塚には他に里宮や御嶽神社の祠が奥宮とセットでありますが、ここにはどうやら奥宮以外にはなさそうです。祠はあるのですが、お稲荷さんだったり、御嶽神社の文字はありません。
お稲荷さんと思われるお狐様が飾られていました。
こちらの祠は新しそうです

誰もいなくて静かな境内でした。

この神社のすぐ近くに童橋、童公園というところがあり、この公園には室生犀星の苔と庭石があると知り、見に行ってみました。

庭石というのはこれかな?苔はわかりませんでした。でも、先程田端文士村記念館にて「室生犀星の苔」の展示があったため(撮影禁止)見ておりました。

公園で遊ぶ子どもたちがたくさんいました。
皆楽しそうでにぎやかでした。

かなり傷だらけで読み難かった看板


田端文士村記念館ではマンホールカードがもらえます。
ここでは「のらくろ」のマンホールでした。

漫画「のらくろ」シリーズの主人公・のらくろ(本名:野良犬黒吉)をモチーフにしたマンホール蓋です。黒犬・のらくろが軍隊に入り、二等兵から毎年昇進して大尉になる物語。厳しい境遇にも負けず、自分の生きる道を切り開いていく姿や、ナンセンスな笑いが人気を博し、昭和初期を代表する漫画となりました。作者の田河水泡は、1929年から1931年まで義兄で文芸評論家の小林秀雄らと共に田端に移住し、この時期に雑誌「少年倶楽部」で「のらくろ」を発表しています。(以上カード記載の文章から書き写しました)

本物は田端文士記念館から歩いて10分もかからないと教えてもらい、行ってみることに。
坂を登りしばらく歩くと…
あ!ありました!

田端駅にはこんな看板も!

今年は新しいお札がいよいよお目見えするのですね。北区王子にある飛鳥山には渋沢栄一が晩年住んだ家があります。渋沢栄一は今回新一万円札の顔となるため北区は渋沢栄一ゆかりの地として大河ドラマの頃から力を入れています。新札発行は7月3日!もうすぐですね

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