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美術を読むーあこがれの教養

意味が分からなくてぞくぞくした。
絵の解説で、こんな気持ちを感じた作品は
初めてではないだろうか。

ボッティチェリ作
「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」


あのボッティチェリの作品なのかと後から改めてハッとした。そんなことは全く気にならなかったことが我ながら不思議だった。いままで、見たことがない絵は、まず「誰が描いた絵だろう」ということから入ることが多かったから。


今回中野京子さんの本「怖い絵」の中で知り、その不可解な解説にひきよせられた。これはあこがれの教養だとぞくぞくした。

この作品はフィレンツェの富豪プッチが、新婚の息子へのプレゼント用に注文したものだそうだ。若い夫婦の寝室の壁に羽目板絵として飾られたらしいのだが、寝室にふさわしいとはとても思えず、
そのエピソードにギョッとした。


4枚で一式の作品を「怖い絵」の中野京子さんの解説をもとに書かせていただきたい。


第1パネル(テーマで見る世界の名画9神話と物語)

髪振り乱した女性が全裸というだけでも異常な事態を感じるが、騎士に追い立てられ、犬にかまれているなんていったい何が起きたのか。
遠景はおだやかな風景が広がっていて、余計に女性の状況が異常に見える。
左の男性は二人いるようだが、同一人物で、時間の経過をみせているのだそう。肩にかけていた帽子をふりみだして、ひろった枝で女性を助けようとあわててたちむかおうとしているのだとか。



第2パネル(テーマで見る世界の名画9神話と物語)

この2番めの絵の解説がまた凄まじい。
殺された女性の背中から内臓をとりだし犬たちに投げ与え、犬たちがそれらを食べている絵。さっき女性を助けようとしていた男性は、あまりの恐ろしさに顔面蒼白にみえる。
遠くにも同じく追いかけられている全裸の女性がいる。あの女性も内臓を取り出されている女性のようになるのは時間の問題だろう。

いみのわからない不安と胸騒ぎでどきどきするが、目が離せない。
どんな物語か想像できない。
どんな状況か全く理解できない。



第3パネル(テーマで見る世界の名画9神話と物語)

次は裸の女性と騎士が宴会になだれ込む。
この異常な事態に慌てふためく人の反応にホッとする私。ひっくりかえる籠や食べ物がみえるが、目の前でこんなことがおきたら当然とりみだすに決まっている。
異常な場面だが、人々の反応は普通のようだ。

追いかけられている女性は前に見える机につっこみ、いきどまりとなるのだろうか。そしてやっぱり殺されるのだろうかと不安になる。


第4パネルは現在個人蔵だそうで
画集にものっていなかった。
ちなみに第1~第3は現在スペインのプラド美術館に所蔵されているそうである。


中野京子さんの「怖い絵」の中でモノクロで紹介されていたものを使用させていただいた。

「怖い絵」中野京子著より

さて、いよいよ答えである。

解説をいくら聞いても全く不可解で不気味であったが、当時のフィレンツェ人には難しいものではなかったのだそうだ。

これはボッカチオの「デカメロン」中の5日目第8話で語られる、ナスタジオ・デリ・オネスティ(誠実なナスタジオ)のエピソードを原点としたものだそうだ。

物語はこうだ。

ラヴェンナの富裕な貴族ナスタジオは、自分より身分の高いパオラに
恋し、誠実を尽くすが、家柄の良さと美貌を誇る彼女に冷たくあしらわれるだけだったので、このままでは自殺しかねないと心配した友人たちの勧めによって、近郊の松林のそばに豪奢なテントを張って暮らし始めた。(つまりは第1パネル画中左の赤いホーズの若者こそ、失意のナスタジオだったのだ)5月のある金曜日(金曜とは「ヴィーナスの日」とも「死者の蘇る日」ともいわれている)、ナスタジオが物思いにふけりながら林を散歩していると、まさに絵で展開されたとおりの「出現」に遭遇。おどろいて裸の女性をたすけようとするナスタジオに、馬上の騎士は時間をとめて、こんな説明をする。「自分は失恋をして自殺した。相手の女性もまもなく神罰が下って地獄おくりになり、二人に宣告されたのがこれである、つまり女は自分から逃げ、自分は女を追いかけ、金曜日ごとに追いついて、自殺のとき使った探検で彼女を殺すのだ」と。
こうして騎士はナスタジオの目の前で女を殺し、内臓を猟犬たちに喰わせる。ところが瞬くうちに女は元通りの姿になり、再び海の方へ走って逃げだし、騎士も追いかけてゆく。ここで第2パネルの、海沿いを張りる彼らの謎が解ける。時間が遠景から前景へ進んでいるのではなく、身の毛もよだつこの残虐シーンがえんどれすに循環しているという意味だったのだ。
さて、このときナスタジオの頭にひらめくものがあった。さっそく彼は翌週の金曜にパラオを含めた大勢の客を招待し、松林に一席をもうける。惨劇は繰り返され、驚くみんなにナスタジオは騎士の話をして聞かせる。パラオたち女性の胸にはグサリとくる恋物語だったらしい。その夜のうちにナスタジオは彼女から結婚承諾の返事をもらった。
したがって第4パネルはナスタジオとパラオのめでたい結婚式(ボッティチェリは画中に注文主ら実在の人物を描き込んでいる)であり、凱旋門は彼女に対する彼の勝利の意なのだった。
「デカメロン」には「ほどなく挙式がおこなわれ、ふたりは末永く幸福に暮らした」と書かれている。

「怖い絵」中野京子著(P98~P100)

ちなみに「デカメロン」はダンテの「神曲」にたいして、「人曲」とも呼ばれているのだそう。また、デカメロンはギリシャ語の「10日」(deka hemerai)に由来し、「十日物語」とも和訳される。
1348年に大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外にひきこもった男女10人が退屈しのぎの話をするという趣向で10人が10話ずつ語り、前100話からなる。内容はユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談などで、それぞれ「千一夜物語」や「七賢者の書」から影響を受けている。

Wikipedia引用

学生の頃教科書で覚えた「デカメロン」はこんな内容だったのか、と思う。そして今回、絵画作品とともに知ることが出来、より印象的に記憶が残ったことが嬉しい。この経験はまさに教養を得たということだと、知的な満足感をあじわった。
わたしは「教養」という言葉に弱い。

中野京子さんのこのあとの見解がまたすごい。

騎士はこの世で手に入れられなかった彼女を、あの世で、まさに骨の髄まで手に入れている。彼の怒りは愛の深さと同じだけ烈しく切実だから、同じく殺戮を何度も何十度も繰り返してなお飽きない。彼は恋する女のすべてをしりたい。裸身にあきたらず、皮膚を切り裂き、内臓をあばき、それをむさぼり喰って(犬たちは彼の分身である)まで、彼女の全てを知ろうとする。それでもなお彼女の本質を知ることができない。それほどまでに彼女は魅惑的なのだ。一方生者の世界では身分のしがらみから冷たくした彼女も、死者の世界では彼にとことんつきあってやる。美しい裸体の全てを惜しみなく彼に投げ与え、何度も何十度も繰り返し味わわせてやる。サディスティックでありマゾヒスティックな、空恐ろしいまでのこの暗い熱情は、むしろ彼らが進んで選び取った究極の愛の形ではなかったか。

「怖い絵」中野京子著(P101)

この解説で、より「デカメロン」の偉大さがわかるような気がした。

世間の様々な愛憎の果てゆえの殺人事件をも想像させた。



つい先日新聞にて中野京子さんの記事をみつけた。
新しい本の紹介である。

日経新聞11/12 書評欄より

この方の肩書はけして「美術」というキーワードがないのだが、美術に関する知識量がものすごいと思う。そして切り口がとてもおもしろく、いままで知っていた絵も、中野京子さんの説明を読むと、全く違う絵に変わってくる。

美術鑑賞に関して学校では主に自由に感じて、自由に表現してよいというようなことが言われてきたかとおもう。それももちろん大事なのだが、「自由」と言われても、どうしていいかわからず、戸惑い、つまらないと感じてしまう人も多かったのではないだろうか。

中野京子さんは自著にてあらゆる箇所に「いろいろ知ってから絵をみる方が面白いと伝えたい」ということを書いていらっしゃる。

例えばこの説も、
作品をみるまえにタイトルからみて頭で理解しようとしてしまうより、まず絵をみて自分の感じ方を大事にした方が良いというような鑑賞法もきいたこともあるのが、でも中野京子さんの本を読むと、がぜん「知ってよかったなあ!おもしろいなあ!」と思うのだ。

中野京子さんの美術話は、どれも面白く興味深い内容ばかりだ。

今回の「怖い絵」もどれもおもしろい!
美術館へ行く前に中野さんの書かれた作品があるのだとしたら、絶対読んでから行かれることをおすすめする。


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