竹田 青嗣(著) 『哲学とは何か』 読書メモ(再掲)
2022年3月27日に投稿済みですが、目次を追記しました。
第一章 哲学の謎と普遍認識
(a)古代ギリシャにおけるソフィストとして知られたゴルギアスの三つのテーゼ
およそ何ものも存在しえない。あるいは存在は証明されない。
万一存在があるとしても、決して認識されない。
万一存在が認識されたとしても、決して言語によって示しえない。
この三つのテーゼは、普遍認識をめがける哲学の営みの、不可能性 の論証となる。さらに重大 なのは、 ゴルギアス・テーゼ は、 現代 哲学 に いたる までの 一切 の 哲学的 相対主義 = 懐疑論 の 源泉 で あり、 その エッセンス を 示し て いる という こと だ。
(b)これら 三つ の 謎 の 要 の 部分 を なす のが、 普遍 認識 が 可能 か 不可能 か という 問題 なの だ が、 ゴルギアス・テーゼ に 象徴 さ れる この 認識論 上 の 難問は、 じ つ を いえ ば 近代 の 最後 に き て、 ニーチェ と フッサール という 二人 の 哲学者 によって ほぼ 解明 さ れる こと に なる。 ところが、 この こと は いくつ かの 事情の ため に ほとんど 理解 さ れ ない まま なので ある。 そして その ため に 哲学 の「 三つ の 謎」 は 未解決 の まま 現代 哲学 に 持ち越さ れ て おり、 現代 分析哲学 の 中心 問題として( とくに「 言語 の 謎」 の 形 を とる) 議論 が 延々と 続い て いる の だ。
(c)哲学の中心的な謎は「認識の謎」で あり、 そこ から「 存在 の 謎」と「 言語 の 謎」 が 現われ た と 言える。 そして また、 さらに 派生的に 現われる 謎 が、 たとえば 時間 の 謎、 同一性 の 謎、 意味 の 謎、美の謎、そして価値の謎などである。これら の 謎 は、 とくに 現代 哲学 において 膨大 な 議論 の 山 を 築い て いる の だ が、 重要 なのは、これら の 哲学的 謎 は、「 認識の 謎」 が 根本的 に 解か れ ない かぎり決して 解か れ え ない という こと なので ある。
(d)「普遍性」 や「 原理」 の 考え は 形而上学 や 独断論的 世界観 に 結びつけ られ、 とくに 二十世紀 の 全体主義 やスターリニズム の 後ろ 盾 に なっ た と 見なさ れ た。 そこ から、 世界 について 多様 な 考えが あっ て いい では ない か、 むしろ さまざま な 考え が ある こと が重要 ではないか、 という 相対主義 の 主張 が 強い 説得 力 を もつ に いたっ た の だ。 だが、哲学のそもそもの成り立ちを考えれば、この主張には大きな勘違いがあるといわねばならない。
(e) 哲学 は、 その 起源 から いっ て、 多様 な 考え を もつ 人間 が 集まって、 ある 問題 について 共通 の 了解 を 創り出そ う と する、「 開かれ た 言語ゲーム」 として 現われ た。 ここ に、 哲学 が「 普遍 認識」を 求める ゲーム だ という こと の もともと の 意味 が ある。
第二章 近代哲学の苦闘と「認識の謎」の解明
(a)まず、「 自然 の 数学 化」 とは、 自然 事物 の 秩序、 構造、 因果性 を、すべて 一対一対応 の(一義的 な) 記号 で( すなわち 数 で) 表現 する こと だ。 この こと で、 自然 対象 は、 だれ にとって も 完全 に 一義的 な( 同一 の) もの として、 表現 さ れる。 自然科学において は、 この 方法 によって 存在― 認識― 表現( 言語) の 一致 が なしとげ られる。 すなわち 自然科学 の 領域 に 限っ ては、 ゴルギアス・テーゼ の難問は克服される。
(b)哲学 にとって 重要 なのは「 自然 領域」 では なく、 むしろ「 こと がら = 事象」 の 領域、 つまり 人間や社会にかかわる問題領域である。これを「本質領域」と呼ぶことができる。(中略)自然科学の方法で基礎単位を設定すれば、すべて客観的に数字化できる。しかし、人間の本質とは何かとか、社会の本質をどう捉えるかという問題については、これを厳密に数学化することはできない。
(c)ニーチェの認識構図:
全知なる神は存在しないと考える。すると「完全な認識」という概念が無効になる。そして、 それぞれ の 生き物 は それぞれ の「 生 の力」( 欲望・身体 の あり よう) に 応じ て( 相関 的 に) 最も 適切 な 世界 認識 を もつ。
「 存在」 として の 世界( = 客観 世界) は 存在 せ ず、「 生成」として の 世界( = 生き物 の 生 の 世界 に 現れ 出、 形 を 成し て くる 世界) だけが ある、 と いう。 つまり「客観 存在」 として の 世界 は「 捏造 さ れ た もの」 に すぎ ない。
認識とは、個々の生き物のうちでその欲望(=力)と相関的に生成される、ひとつの「世界分節」にほかならない。
(d)一切の認識はそれぞれの生き物の「力の遠近法」的観点 から 成立 する、 という ニーチェ の 構図 は、 それ が 生 世界 の 生成 論( 生き物 にとって の 世界 が どの よう に 現出 する のか) について の 理論である ことが 見逃さ れる と、 容易 に 相対主義 的 観点 として 受けとられる。 相対主義 は、 暗黙 の うち に「 本体」 を 想定 し た 上 で、 それ は さまざま な 観点( 遠近法) から見られるだけで、完全な観点というものはどこにも存在しない、という見方をとるからだ。
(e)フッサールの現象学的概念:認識問題の解明のために、あえて(=方法的に)一切の認識を、主観のうちで構成される「確信」とみなす。このことで「主観ー客観」の構図は消え去り、すべての認識を、「主観のうちでの内在と超越の関係」として考えることができる。主観ー客観の「一致」は誰にも確かめられないが、「内在と超越(確信)」の関係の構造は、誰にも必ず内省によって確かめられるものとなる。
第三章 現象学批判と「イデーン」
(a)フッサールが誤解された三つの理由:
最も有望な弟子とみなされたハイデガーの、現象学から存在論への離反。
フッサールの直接の高弟たちの、ハイデガー哲学への傾斜(あるいは転向)
弟子たちの現象学理解がフランスへ輸出され、その後、ポストモダン思想の隆盛によって、この現象学理解にもとづく独断論、主観主義、基礎づけ主義(客観主義)であるという現象学批判が世界中に拡がったこと。
(b)現象学的還元の方法:
①「客観」の項目を消去(エポケー)する。
②主観の内在意識の領域だけが残り、ここを内探究の対象とする。
③この主観の内在意識の基本構造が、「ノエシスーノエマ」構造。基本的には「ノエシス」(例えば客観の項目だったリンゴを見たときに感じた赤い、丸い、つやつやという等の知覚像)から「ノエマ」(これはリンゴだという確信)がたえず構成されている。この「ノエマ」が、構成された対象確信である。
(c)内在ー超越スキーマ:内在的知覚(ノエシス=体験)は、つねなる流動なので同一性は現れないが、しかし意識にとっては「実的な要素」(現に確認できる意識与件)であること、これに対して超越的知覚(ノエマ=事物)は、意識の与件(データ)としてはまったく存在せず、ただ意識のうちで構成されている一つの対象確信=「想定されたもの」である。
(d)「内在的知覚=ノエシス=体験)に現われていること(すなわち、赤い、丸い、つやつやの感じ)はその「現実性」を疑えない(不可疑)のに対して、「超越的知覚=ノエマ=事物)として確信されているもの(一個のリンゴ)は常に可疑的である、ということだ(レプリカかもしれない)。つまり、「内在的知覚」の本質的不可疑性、「超越的知覚」(確信)の本質的可疑性という言い方になる。
第四章 「言語の謎」と「存在の謎」の解明
(a)言語のパラドックスが生じるのは、言語を、論理学的な、つまりリテラルな意味の表現として分析するからである。(たとえば、What'the difference?という言葉は、「違いは何であるか」と「何の違いもない」のどちらの意味にも示せるが、リテラルには(字義的には)決定不可能である。また、ある人間があるときにいう「空は青い」と、他の人間が別のときにいう「空が青い」は、同じ意味とはかぎらない。このような問題が論理学的には決して解決できない。)
(b)論理学者たちは、語り手の「意」と「言葉」の一致、そして「言葉」と聞き手の「了解」の「一致」の可能性を論証しようとする。相対主義者たちは反対に、この「一致」の成立は不可能であることを論証する。しかし両者ともに、「一致」が可能か可能でないかを問題としているのである。現象学の「確信条件」の解明は、この前提を完全に顛倒する。
(c)聞き手は自分の了解が正しいかどうかを確かめることはできるが、人間は嘘をつけるから絶対的に正しいかどうかは検証できない。したがって、およそ言語行為においては、原理的に「意」と「言葉」と「了解」の厳密な一致はありえないとデリダは言う。 しかしデリダの主張は、「一致」の図式を前提とした不可能性の論証であって、言語の意味の本体論である。ニーチェ、フッサールの観点からは、言語行為で生じているのは、すでにみた信憑構造である。
(d)一方 は 自分 の「 意」 が 受けとら れ た と 感じ、 他方 は 相手 の「 意」 を 受けとったと感じる。この相互の適合信憑によって間主観的な「意」の信憑が成立する。
(e)言語 ゲーム において 成立 し て いる のは、「 一般 意味」 を 媒介 とし た「 企 投 的 意味」 の 間 主観的 な 信憑-了解 ということである。ここに、言語ゲームとしての「言語」の本質構造が示されている。
(f)デリダのフッサール批判『声と現象』は、現象学 を 厳密 な 認識 の 基礎 づけ の 試み として、 つまり「 形而上学 への 野望」 として 批判 する。『 声 と 現象』 を 読む 者 は まず その 難解 さに とまどうだろう。しかし、 内実 は、 ゴルギアス・テーゼ における、 とくに「 認識 と 言語 の 一致」 の 不可能 性 の 論証 を、 韜晦 的 話法 で 複雑 に し た もの で、 議論 の要点はきわめてシンプルである。(中略)
ここまで論じてきたことからも明かだが、デリダの批判は二重に誤っている。 第一に、フッサールの狙いは厳密な認識の基礎づけにあり、それゆえ存在と認識の「一致」を論証する、という前提がまず誤りである。見てきたように、フッサールの認識の謎の解明は、「一致」の証明ではなく対象の存在確信の構造の解明なのだが、このことをデリダはまったく理解していない。 第二に、デリダによる、「絶対的今」は存在しないという批判は、ベルクソンのいう「時間を紐のように表象する」通俗的な時間表象によっている。一方、フッサールの時間論は、あくまで意識内における「今」の確信がどのような条件で構成されるかについての洞察であって一致の論証ではない。
【呟き:本書でデリダ批判がされているので、最近発売された、千葉雅也著『現代思想入門』にデリダについても言及していため、購入して読んでみたが、デリダの師匠であるフッサールについては、ほとんど触れていなかった。カント、ニーチェについては触れていたにもかかわらずにだ。
フッサール以降の哲学の現代思想については、フッサールを無視する不文律みたいになものがあるのだろうか。本書によれば、フッサール本をフランス語に翻訳したのは、初期レヴィナスであるが、ハイデガーのネガティブな現象学像の影響を受けている。フランスでは、サルトル、メルロ・ポンティという二人の現象学派として独自の哲学を展開していたが、やがてポストモダン思想が隆盛となる。
ポストモダン思想は哲学的相対主義を理論武器とするため、認識の普遍性を立て直そうとする現象学は形而上学の現代形態として厳しい批判の対象となった。
本書を読むと、哲学は、今一度、現象学から再スタートするべきだとさえ感じる。フッサールの弟子であったハイデガー、デリダがフッサールの思想の本質を理解していない、ということであれば、なおさらです。
フッサールについては、放送大学で、多少勉強したぐらいで、現象学的還元、エポケー、ノエシス、ノエマ等の用語は知っていても、理解していなかった。本書を読んで、目から鱗が落ちたように感じた。とはいえ、私ごときの理解度は如何ほどのものかは別にして、ハイデガー、デリダという哲学世界では超ビッグな哲学者が、師匠を乗り越えることはあっても、理解できないということがありえるのか、という疑問もある。
ある日偶然にだが、竹田青嗣と苫野一徳の師弟対談をyoutubeで観たことがきっかけとなり、本書を手にすることになった。その後、同じくyoutubeで竹田青嗣X井庭崇の「本質を捉える方法」という番組では、認知症の利用者の対応に、現象学を駆使して実際に応用している場面があり感心し、益々フッサールを勉強する気持ちなった。】
(g)端的 に いえ ば、 時間 は、 さまざま な 事物 や 事象 の 存在 を 可能に し て いる 何 か( 存在)だが、事物的存在ではない。つまり事物の存在と時間の存在は、カテゴリーが違う。(中略)
すでにわれわれはニーチェの「生成としての世界」という概念を見てきた。つまり、 生き物 が 主体 として 生き て いる 世界 こそ が さまざま な 存在 者( 事物、 事象) を 可能 に する もの で ある。「 生成 の 世界」 は 生き物が 意識 をもっ て たえず 世界 と 対象 を 分節 し て いる 磁場 なので ある。 この 絶え ざる「 世界 の 生成」 こそ が、 時間 性 という もの の 本質 なので ある( 実存 的 時間)。
(h)存在の謎にアクセスするには認識の謎の解明が不可欠だが、ハイデガーはこのモチーフをフッサールから受とらなかった。そのため、ハイデガーにして、「誰も存在を論証できない」というゴルギアスの難問を克服できず、その「存在」の探究の試みは、「本体としての存在の探究」となったからである。
(i)哲学は、東西を問わず、「存在」の問いに対して伝統的に「形而上学(物語=批評)の方法を用いてきた。宗教の世界創成神話はそのプロトタイプであり、アリストテレスの「不動の動者」やヘーゲルの「絶対精神」もこの形而上学に属する。メイヤスーやガブリエルの哲学は存在論を含むが、思弁によって世界のありようを思索するという点で、これも存在についての思弁的な形而上学といえる。
(j)本質-意味―価値の世界の 本体 は どこ にも 実在 し ない。 それ は われわれ 人間 の 世界 において のみ 創り出さ れる、 関係 的 な 意味-価値 の 世界 だ から だ。まさしく この 領域 において、ニーチェの「本体論の解体」とフッサールの「確信構成の構造」の考え方は決定的な意義をもつのである。
第五章 本質観取とは何か
(a)本質観取は、そもそも「認識の謎」の解明のために、対象の確信構成を観取する方法である。(中略)言語の「意味」は、「言語」に内在するものではなく人間どうしの言葉のやりとりの中で、相互の関係的な了解 性として生成する、という点にある。
(b)哲学者は何らかのキーワード(原理)をおいてこの「本質」を示そうと試みる。つまり哲学の原理とは、どのような言葉が「ことがらの本質」をもっともうまく説明できるかを求めるものであって、何が真理であるかを示すことではない。
(c)日本では、フッサールの「本質学」および確信構成の方法としての「本質観取」の概念を人文領域に自覚的に取り入れた先駆的な学的研究が徐々に現れている。日本の救急医学を臨床医学の一分野として確立した草分け的存在でもある行岡哲男の著作『医療とは何か』はその優れた範例である。(中略)
行岡は、これまでの事実学的(実証主義的)体系だけでなく、なぜ医学の考えとして現象学の本質的方法が不可欠であるかについて、以下のようにいう。
現在の医学体系は、当然とはいえ、その実証主義的本性からデカルト以来の主観―客観認識図式を強固な前提としてもち、「正しい判断」(=「正しい診断」「正しい治療法」)が事前に存在して、医療者はいかにこの「正しい判断」に達することができるか、という考え方が支配的である。しかし実際の医療実践においては、主観―客観図式はきわめて不合理であるだけでなく、危険でもある。
(d)行岡が提唱する「正しいと確信する判断を形成する言語ゲーム」としての医療実践の考えは、チーム医療のみならず、医療全体、患者、家族、治療者、看護師という当事者たちの最善をめがける本質的な言語ゲームに適用されうる。それだけではない、行岡のいう本質学的な「言語ゲーム」の概念は、医療のみならず、さまざまな社会的実践領域(医療、看護、福祉実践など、いわゆる質的研究と呼ばれる領域、さらに教育や法曹など)への適用可能性を示すという点できわめて大きな意義をもつ。
(e)コント以来の「社会科学」は、近代哲学を「形而上学」と見なして社会の新しい普遍認識を目ざした。しかし科学的方法を標榜して登場した二つの新しい社会理論は、この課題をよくクリアしたとはいいがたい。マルクス主義は一つの価値観を「唯一の正しい世界観」として置いたが、その「客観性」は検証されなかった。
(f)デュルケームからパーソンズ、ルーマンへと進んだ主流の社会学は、方法的には複雑化したが、その方法は社会を「事実」「実体」として認識するものであり、いかなる観点が社会の普遍的な認識をもたらすかについての問題意識を方法としてもっていない。そして、この事情は社会学の分野にとどまらない。
(g)コント以来の「社会科学」は、社会学、政治学、歴史学、経済学、宗教学等々諸科学に分岐したが、心理学や倫理学を含め、どの領域においてもフッサールが示唆した諸説の乱立と異説の対立という事態が現れて
いるからである。
第六章 現代哲学と社会理論の隘路
(a)フーコーは、近代社会の諸制度がもつ負の側面を描くという点ではきわめて大きな仕事を果たしたといえる。しかし、われわれが近代社会に代わるどのようなオルタナティブをもちうるかという展望は、彼の仕事からはまったく取り出すことができない。
(b)デリダの「正義論」は、正義や贈与といったことがらの本質の洞察から出発していない。その根本の動機は、社会革命が生じるべきであるという一つの価値観、信念、希望にあり、「国家」の存在そのものを批判するために、「贈与」という絶対的な理想理念を持ち出しているにすぎない。(中略)そしてここには、近代国家や権力に対する根本的な無理解が存在する。
(c)ニーチェがいうのは、社会的な「正義」は同情や憐憫といった人間の「善意」から実現されることはありえない、それは何らかの強力な権威と実力が「法」を制定し、それによって人々が、攻撃と復讐という「普遍闘争」の連鎖から力ずくで引き離されたとき、はじめて可能になるということにほかならない。
(d)デリダのみならず、フーコー、ドゥルーズなどの現代思想家は、おしなべて社会から国家の「権力」や「法」を取り払ったときに真の「正義」が可能となる、という素朴な、しかし強固なロマン主義的表象から逃れられないでいる。
(e)近代国家がしばしば独裁体制となり権力を濫用したことと、ルソーやアレントが示している権力と暴力の本質とはまた別の問題であることを理解せねばならない。
(f)ロールズ、ノージック、マッキンタイヤに代表されるアメリカ政治哲学は、社会における「正義」の公準を任意の価値理論によって基礎づけようとする試みだが、この試みは、価値観の対立という難問を克服することができない。
第七章 「社会の本質学」への展望
(a)「社会」の認識とは、あるいはわれわれが「社会」なるものを認識しようとすることの核心的な動機には、社会的現実が生み出す矛盾をいかに克服できるかという問いが含まれている。そしてここに、「社会」なるものの認識対象としての本質があるといってよい。
(b)われわれがいま社会の認識を必要とするとき、それは「社会はかくかくのものとして存在している」という事実の説明ではなく、いまある社会の矛盾を克服し、よりよい状態にもたらすには何が必要かという要求の応じる認識でなくてはならない。
(c)いかにして自由な社会が可能となるかという問いに対するルソーの考えの核心:全員が、絶対権力(王権と教会権力)を排除して、対等な権利で自分たちの統治権力を創り上げるという「意志」をもち、この「意志」を現実化すること(社会契約)である。またこのことから、政治統治と法は必ず「一般意志」を代表せねばならない。
(d)ルソーの原理を以下のように言い換える。たとえばわれわれがゲームを行うとする。このゲームが、誰からも不平の出ないフェアな(公正かつ公平な)ゲームであることの本質的な条件は何か。それは、まずメンバーが互いに対等なプレーヤーとして認め合うこと。つぎに、全員が同じ一つのルールにしたがっていること(それゆえ特権や差別がないこと)。そして、このゲームのルールが、超越的な外的権威をもたず、つねにメンバーの合意によっての変更可能であること、となる。
(e)「自由な市民社会」の原理は、任意の社会原理、ロールズの互恵的原理、ノージックの「所有の権原」の原理、マッキンタイヤの「美徳」の原理と決定的に異なるところがある。その要点は一つだ。つまり、この「自由な市民社会」の原理だけが、「普遍戦争」を抑止しかつ多様な価値の共存(自由)を可能にする「唯一の原理」である、ということだ。
(f)アメリカ政治哲学における社会的「正しさ」の公準の探求がなぜ挫折した理由として、たとえばリバタリアニズムは個人の所有の「権原」に正しさの根拠をおき、コミュニタリニズムは共同体的美徳にその根拠をおいたことにある。これらの「公準」は、特定の価値理念であって、市民社会の「正しさ」の公準たることはできないからである。
(g)「万人の救済」「万人の幸福」「絶対平等」「絶対自由」「世界の道徳的完成」等々の理想理念は人々の生の矛盾の意識から育つので、人々がどのような条件で生きているかによって多様性をもち、この矛盾の意識の多様性が異なった価値理念として表現される。 それゆえ、一つ一つの矛盾の意識には大きな理があるが、個々の理想理念はそれ自体としては普遍性をもちえない。そしてこのことから導かれるのは、(中略)「自由な市民社会」の原理だけが普遍的なものとして残されるということである。
(h)「自由な市民社会」の原理を擁護することに対する疑義として、世界の現状を是認するだけとか、現状を変えるためには、新しい政治原理が必要である等がある。これは多くの人々が抱いてきた「近代社会」に対する疑義でもある。しかし、さまざまな社会原理の本質を哲学的に吟味するかぎり、人間社会が向かうべき未来の可能性として、「自由な市民社会」の原理以外のものはまだ見出されていない。