ローティについて
昨日投稿したアメリカの哲学でローティは、「反基礎づけ主義」「反本質主義」を掲げていたと述べましたが、これについて、苫野一徳氏は哲学的には詰めの甘い議論だと批判する。
苫野氏によれば、ローティはまさにこの「本質」論を拒絶し続けたがゆえに、その政治理論の展開において、後に深刻な自己矛盾あるいは自己欺瞞に陥ってしまうことになる、と言う。
絶対的な「よさ」や「正義」などないと言いながら、ローティはその政治理論において、「残酷であってはならない」という「価値」を打ち出したからだと述べる。しかも、その根拠については示すことなく堅持すると開き直っているというわけです。
こうしたローティ的なアイロニーーー斜に構えた開き直りーーーをローティに百数年先駆けてヘーゲルが批判している、と言う。
ローティでいえば、それは「残酷であってはならない」という「価値」のこととなる。
また、ヘーゲルは、「イロニー」を掲げる人は、自身がそこに留まっているだけでなく、やがてはその自己矛盾的な価値を、何らかの形で共有しようとし始めると言うのだが、実際ローティもまた、まさに自らのリベラル・アイロニストとしての信条をもとに、各人が連帯することを主張している、と苫野氏は述べる。
ということから、「本質」などないと頑なに強弁し続けるのではなく、むしろ普遍的な共通了解の得られうる「本質」とは何かと問い合うべきなのだ、と主張する。