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ローティについて

昨日投稿したアメリカの哲学でローティは、「反基礎づけ主義」「反本質主義」を掲げていたと述べましたが、これについて、苫野一徳氏は哲学的には詰めの甘い議論だと批判する。

わたしの考えでは、「本質」論、とりわけ人間的欲望の本質論は、プラグマティックにいえば「あったほうがうまくいく」。むしろ「本質」論は、原理的にいって不可欠なものである。(中略)わたしたちは認識においても言語使用においても、絶えず何らかの「本質」を、常にすでに直観してしまっているからだ。

苫野 一徳. 「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHKブックス (p.139). NHK出版. Kindle 版.

苫野氏によれば、ローティはまさにこの「本質」論を拒絶し続けたがゆえに、その政治理論の展開において、後に深刻な自己矛盾あるいは自己欺瞞に陥ってしまうことになる、と言う。

絶対的な「よさ」や「正義」などないと言いながら、ローティはその政治理論において、「残酷であってはならない」という「価値」を打ち出したからだと述べる。しかも、その根拠については示すことなく堅持すると開き直っているというわけです。

こうしたローティ的なアイロニーーー斜に構えた開き直りーーーをローティに百数年先駆けてヘーゲルが批判している、と言う。

近代において、人びとは「絶対に正しいことなどない」ということを十分に知り抜いた。しかしこのことを知った人間は、やがて、「絶対に正しいことなどないということを、わたし自身は知っている」といい出すことになる。ヘーゲルはまずそのようにいう。

つまり相対主義的「イロニー」(=アイロニー)は、その相対化をすること(相対化をしている自分を)、絶対化してしまうことと表裏一体なのである。(中略)

ヘーゲルはさらにいう。それゆえ「イロニー」を掲げる人間は、自分はいつでも相対化の論理を忘れていないと強弁しながら、最終的には何らかの「価値」を、いつしか自己欺瞞的に打ち出すことになりやすいのだと。

苫野 一徳. 「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 NHKブックス (p.141). NHK出版. Kindle 版.

ローティでいえば、それは「残酷であってはならない」という「価値」のこととなる。

また、ヘーゲルは、「イロニー」を掲げる人は、自身がそこに留まっているだけでなく、やがてはその自己矛盾的な価値を、何らかの形で共有しようとし始めると言うのだが、実際ローティもまた、まさに自らのリベラル・アイロニストとしての信条をもとに、各人が連帯することを主張している、と苫野氏は述べる。

ということから、「本質」などないと頑なに強弁し続けるのではなく、むしろ普遍的な共通了解の得られうる「本質」とは何かと問い合うべきなのだ、と主張する。


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