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プラトンの『パイドン』にある「哲学することは死の練習である」について
もはや、77歳だというのに、何で、胸にモヤモヤとしたものがあるのだろう。
意識というものがあることは、確信できるが、それが、胸にあるのか、脳にあるのか、それとも身体全体にあるのかは、脳神経科学でさえ、分かっていないことなので、「胸にモヤモヤ」という表現を仮に使った。
私と同年齢である哲学者中島義道氏は、数々の書籍を刊行し、大学教員を務めあげ、実績も十分に積み上げてきた人でさえ、[私は哲学しているのか?」という問うと「していない!」]と答えるようです。
そんな中で、プラトンの『パイドン』にある「哲学することは死の練習である」という有名なフレーズを知ったそうです。その部分を抜粋します。
まずひとつの場合として、魂がまさに清浄なるままに、肉体から離れ去るとすれば、どうであろうか。すなわち、みずからすすんで肉体といっしょにあったことは、その生涯において一度もなかったがゆえに、その離別のときには、肉体にかかわるいかなるものも共に共に引きずってゆくことはなく、いなむしろ魂は、そのときつね日頃それの習いをかさねてきたそのままに、肉体をまったく逃れてそれ自身へと結集し、純粋な魂そのものとなったとしてみたまえ。──ところでそれはとりもなおさず、真正の仕方で知を求めてきたそのままにということであり、また真にこころやすんじて死にきることを習ってきたそのままにということなのだ。それとも、どうかな、知を求めること(哲学すること)とは、まさに死の練習である、としていいのではないだろうか (『パイドン』松永雄二訳、プラトン全集第一巻、岩波書店、P234~P235)
中島氏は、「もはや社会は(もしかしたら誰も)あなたを必要としていないのですから、このさいこの世に執着することはやめて、死のみを考えて残りの人生を送ったたらいかがでしょうか?」と進言する。
その結果、不幸になるかも知れないし、しかも何もわからないまま死ぬかもしれない。でもそれが哲学することである、というのです。
死が直近まで来ていると感じているから各種の哲学書を読み、仏教学者佐々木閑氏の動画を観ている。それでも「胸のモヤモヤ」は取れない。