「時間の謎」について(2)
前回に続いて、今回も、時間について、竹田青嗣著『欲望論』第1巻に基づいて学びます。
前回は、時間のパラドクス論の数々を竹田は批判してきました。
今回はフッサールの『内的時間意識の現象学』の不備を補いつつ、竹田が時間の本質観取を遂行するのを記述します。
フッサールが言っているのは、時間の「本体論」を止めよ、つまり絶対的な「時間」の正体を、われわれは客観的に明らかにすることはできないということです。
そして、「過去・現在・未来」が「ある」は「実在する」ではなく、「現前意識」のうちで構成される「世界」の現出の秩序性であると叙述しています。
このフッサールの説に対して、デリダの批判は次のようなものでした。
「絶対的今」は存在しない、なぜならどんな「今」もすでに「非今」(過去)を含むことが証明されるからだ。
これは、ゼノンの時間のパラドクス説を、時間の空間化だと指摘したベルクソンの批判と同様なことがいえます。つまり、デリダは、時間を一本の紐のような空間に譬えているようなものだというわけです。
紐であれば、スパッと切ってしまえば、確かに「今」は無くなってしまい、「絶対的今」は存在しないことになる。だが、時間は紐(空間)ではない。
フッサールは時間という実体があるとかないとかではなくて、現前意識(生き生きとした今)を内面化し、これがどのような本質構造を持っているかどうかを問うている。
竹田による「今」の本質解明は次のように叙述する。
フッサールは『内面時間意識の現象学』で時間の本質観取を行ったが、「判然的現前」「情動継起」「情動累積」という概念を竹田は提示した。これが、フッサールには欠けていたというのです。
「判然的現前」とは?
目の前の事物対象、「机」や「りんご」などの対象存在の現実性の確信は、それが「判然的現前性」の相で、すなわち「ありありとした知覚的像」として「私」に現出しているかぎりで持続的に定立されている。
この判然的現前性は継起性をもつ。特に情動的な継起性を持つ。
そしてここにこそ、われわれの時間確信の本質がある。
竹田はメロディーの例で説明している。
対象意味が情動を喚起する典型的例として、しだれて揺れる柳の葉を見てそれを「幽霊」と思い違える場合を、竹田はあげている。
対象意味を介さず知覚形象が直接に情動を喚起する場合の例は、他人の顔の表情である。他人の顔の表情はほとんどの場合自動的に(対象意味を介さず)われわれの情動を喚起する。
その他、ピアノのキーから打ち出された一音は、ただの一音であれ、鋭い音、柔らかい音、軽快な音、きれいな音、透明な音、濁った音、重い音などといった言葉で形容されるような情動を喚起する。
メロディーの連続において楽音を連繋してゆく音楽では、そこに生じる情動の継起的連続と、そのことでたえず刷新されつつ形成されていく「情動累積」ということがこの体験の中心的な本質をなす。
つぎつぎに現われる新しい音ーメロディーは、前の音ーメロディーの情動ー情感性との連繋のうちでたえず新しい情感性を刷新しつつ喚起してゆく、という構造、すなわち情動継起ー情動累積の構造として、理解できる。
「判然的現前」「情動継起」「情動累積」の三契機こそが、われわれの現前意識において観取される時間の本質構造なのだ、と竹田はいう。
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