竹田青嗣によれば、「現代思想において、ここ1世紀以上、フッサール現象学とその根本方法に対する疑義と批判が示されていた」と言うのです。
確かに、現代思想家のデリダ、フーコー、メイヤスたちはフッサール現象学を批判している。さらに、竹田の現象学は、正統を名乗っている現象学派からは、異端だと言われている。
こうした批判の潮流となったのは、ハイデガーによるフッサール現象学の存在論的継承に起点があり、そしてこれを受けたフッサールの高弟(オイゲン・フィンク、ラントグレーベたち)の現象学理解にある、と竹田は述べる。
フッサール現象学の根本方法を強引にハイデガーの「存在論的探求」の視点から見るかぎり、意識に定位するフッサールの根本方法の意義は決して捉えることができない、と竹田は断言する。
日本の現象学者たちも多くの場合例外ではない、という。
新田義弘、谷徹のいずれも、現象学的〈内在意識〉には、それを可能にする「生き生きとした現在」や「原意識」という先構成者があるが、後者は前者を根拠づけているのだから、現象学的「意識」はこのより根源的な「現在」や「原意識」を捉えるころができない、という議論がなされている。
この批判には、「存在」の根源を探求することが哲学の根本問題であるというハイデガー存在論の影が大きく反映している、と竹田は反論する。
フッサールの現象学的「本質学」と、その弟子ハイデガーの「存在論」とは、現代の実存論哲学の大きな分岐点をなしている、と竹田は考えている。
両者の出自は同じだが、哲学的には決定的に異なったものとなり、もはや本質的に相容れないものとなったというわけです。
竹田の他、西研、苫野一徳と極めて少数の哲学者のみがこのような視点にあるように感じていますが、この立場を支持しています。そして勉強中です。