フッサールが論述する「他者身体」について
昨日の投稿記事で、「心的なもの」の存在は「他者身体」のうちに直観すると記述していますが、この「他者身体」について、追記します。
他我確信
われわれは、直接的に知覚できる対象は、事物対象、他者身体、自己身体の三つに区分できる。
事物対象は自己身体の周囲に存在しているが、われわれの知覚領域外の世界や宇宙まで延長しているというイメージを持ち続けている。
そして、事物存在の地平は自然世界の総体として存在し、厳密な自然法則に基づいているという一般確信が成立している。
他者身体についてのフッサールの洞察は、すでに多くの批判があるようにきわめてミスリーディングであるだけでなくいくつかの点で重要な弱点をもつ、と竹田青嗣氏は主張する。
フッサールの趣意は次のようである。
ざっくりといえば、自己身体を介して、他者身体を確信するというのがフッサールの基本構想というのである。
竹田は、この論理に違和感があるという。
われわれは、他我存在を、何らかの順序性においてではなく、無媒介に、一瞥のうちに確信しているはずなのだ、と竹田は言う。
そこで、他者身体から他我存在の確信の条件をいかに取り出しうるかという問題ではなくて、他者という存在の本質が何であるのかという問いに向かうべきだ、と竹田は述べる。
他者存在の本質
他者存在を、どうしても理解できないというのは、皆が知っていることではある。しかしながら、他者存在の本質は、形而上学的独断論を避けなければならない。
たとえば、レヴィナスが述べる「他者」は形而上学的に理念化されていて、われわれが日常世界において出会う経験的な関係性における他者の本質を表示していない、と言う。
竹田が叙述する「他者」の存在が確信されるときの本質条件は以下の通りである。
第一に、他者は、用在的対象として遇される場合もあるが、しかし本質的に、「私」とは独立した意志、判断、思念、感情などをもつ一つの「主体的意格」として「私」に向き合って現われる。
第二に「他者」は、そのつどの関係において、「私」に対してさまざまな主体的存在本質を示すものとして現われる。
他者は、ある場合には、レヴィナスが示唆したように「女性的なもの」「善良なもの」として、また「師」や「異邦人」としての「顔」において顕現する。
すなわち他者は、「家族」「友人」「親密なもの」という相において「エロス的他者」として現われ、また相互承認的、契約的「他者」として、さらに強大な力によって的な絶対他者として現われる。第三に「他者」は、「私」にとって単なる他の意志や威力を表明し表現する主体的他者であるだけでなく、その内的な意格の表現性を「私」がたえず了解し、把握しようとする独自の他性、すなわち、了解の欲望の対象としての他者でもある。
「他者」を人間の自己中心性を克服するために、超越的な存在とするのは、「神」の存在とすることと同様に形而上学化、本体化にすぎない。
われわれは、われわれの関係の倫理と呼ぶものの本質を、理想理念とその超越化によってではなく、他者関係の関係的本質の洞察自身から見出さなくてはならない、と竹田は強調する。
こうした竹田の論が本当にそう言えるどうか、私たちは後追いして“確かめる”ことができるはずである、と哲学者苫野一徳氏は述べている。
引用図書:竹田青嗣著『欲望論 第1巻「意味」の原理論』