「~とは何か」(4)
認識論の解明
フッサールの方法によって導かれる、認識論の解明の根本課題は次の二つです。
ある領域で普遍認識が成立するその条件と構造を解明すること。
なぜこれまで普遍認識が自然科学、数学の領域で限定されていたかを解明し、ついで、人文科学の領域でこのことが可能となるその可能性の条件を解明すること。
この二つの課題を遂行するための方法が「現象学的還元」である。すなわち、一切の認識を「対象確信」として説明する方法的独我論としての「現象学的還元」である。
まずフッサールは「主観ー客観」の構図自体を認めないので、「主観と客観の一致(的中)」という考えを停止(エポケー)する。ーーーというのは、人間の内部は外に出ることができないので、対象物を客観的に見ることは不可能だからです。ーーーその代わりに、「内示と超越」の一致を示唆する。
つまり。われわれが知覚した「客観的対象」と見なしているもの(=超越)は、じつは「内在」のうちでの「確信の成立」である、ということになる。
①の自然的態度では、原因として客観的に存在するリンゴがあれば、その「結果」として私に「赤くて丸くてつやつやしたリンゴ」が見えているという構図になる。
②の現象学態度では、自然態度のものの見方をいったんエポケー(停止)し、ものの見方を変更(視線変更)して、ここでの「原因」と「結果」を逆に考えることである。(下図2-5参照)
つまり、いま私に「赤くて丸くてつやつやしたリンゴ」の像が見えており、その結果、私は目の前に「一つのリンゴ」が存在するという「確信」をもつ、と考えるということである。これを現象学的還元という。(下図2-6参照)
この現象学的還元という視線変更によって、外側にあるリンゴは内在し、そのことで、認識問題において、外的「客観」と内的「主観」の一致を確かめる必要がなくなる。その代わりに、現象学的主観の中で、内的な知覚像からどのように「客観」の確信(これが「超越」)が構成されるかを、確かめることが可能になる。
かくして、主観ー客観の一致は誰にも確かめられないが、「内在と超越(確信)」の関係の構造は、誰にも必ず内省によって確かめられるものとなる。
リンゴにようなものであれば、視線変更は必要ないが、哲学の中心主題は、人間や社会の問題である。大きなスケールの世界像の問題である。そこでは、この視線変更が不可欠である
たとえば人がキリスト教的世界像をもつ理由は、生まれたときから両親に神様がいると言われ、いつも教会に行って牧師の説教を聞くなどという経験にある。ここでは明らかに、「主観」(=経験)が原因であり、世界像はその結果である。
竹田氏は、次のように、主張している。
竹田氏は、構図を用いて説明してくれているので、理解しやすい。こうした構図もない、難解なフッサールの原文からのみでは、優れた頭脳の持ち主の哲学者たちでも読み取れないということなのだろうか。俄には、信じられないことです。
(続き)
引用図書:竹田青嗣著『哲学とは何か』
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