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「優しさ」と「慈悲」の違いについて

仏教用語ではあるが、日常用語としても使われる「慈悲」という言葉は、同じく日常用語である「優しさ」と混同して理解しがちである。

『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か 』の著者、魚川裕司氏によると、その最も大きな違いは下記の通りとなります。

            『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』P166

そして、この「捨」という態度は、悟りの境地に達した覚者の風光からもたらされるということです。我執と欲望に絡みとられている凡夫が行う「利他」(だと感じられる)行為は、それは単なる「優しさ」だというわけです。

ところで、「捨」という態度が覚者の風光が出るものだとすれば、仁愛も人情のない「不仁」の境地であるはずだが、「 慈・悲・喜」 と いう利他のはたらきかけが生じるのは何故なのか。

この問いに対する答えは次の通りである。

                                 同 P167

梵天の説得に応じて、ブッダは、世の中を観察すると、汚れの少ない者や多い者、利根の者や鈍根の者、教えやすい者教えにくい者などが雑多に存在することを知り、説法することを決意した。ということで、「 慈・悲・喜」 と いう利他のはたらきかけが生じたわけです。

とはいえ、ブッダの仏教は、「 一切衆生」 を 対象 と する もの では なく、 あくまで 語れ ば 理解 する こと の できる 一部 の 者 たちを対象とするものであった、ということです。

ブッダには、こうして慈悲があったのは事実なのだが、問題は、覚者の心に「 慈・悲・喜」 と「 捨」 が 両立 し て い た という、そのことの内実はいかなるものかということです。

凡夫の世界 に 積極的 に 介入 し て いく 利他 の 実践( 慈悲) と、 その よう な「 世界」 を 縁起の 法則 に したがっ て 継起 する だけの 中立 的 な 現象 として 観ずる 捨 の 態度( 智慧) という 二者 の 乖離 は、 仏教 について 真剣 に「 考える」 者 が、 必ず 当面 すること に なる 難問題 で ある。

ブッダも、後代の仏教徒たちも、両立するように努めていることから、やはり智慧と慈悲は、仏教の建前からすれば、この両者は相互補完的なものでなければならない。

智慧 と 慈悲 は いかに し て 併存 し、 相互 補完 する のか という こと が ここ での 難問題 で ある わけ だ が、魚川氏は下記の通り述べている。

                                 同 P170

次は、ブッダの世界観とニーチェの世界観を比較してみる。
ブッダの世界観については、魚川氏によると下記のようになる。

                           同 P109~P110

一方、ニーチェの世界観は、哲学者竹田青嗣氏は下記のように述べている。

                          『新・哲学入門』 P54

下図2-3は竹田著『哲学とは何か』より引用した。
人間と無数の生物のリンクが対象を取り囲んでおり、それぞれが自分の身体(欲望)のありように応じて、自分なりに対象の存在仕方を「認識」していることを示している。

        『哲学とは何か』


さらに、主観と客観について、魚川氏と竹田氏と思考の違いを比較してみる。
魚川氏の場合

             『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』P154

竹田氏の場合
下図についての説明:
目の前にリンゴがある(客観)

私には「赤くてつやつやした丸いもの」が見える(認識)
ここで「客観」と「認識」の関係を①自然的態度と②現象学的態度(還元)の二通りに考えることができる。

②は①を逆転して考えている、すなわち、私に「赤くて丸いもの」が見える(原因)。それゆえ私は、そこにリンゴが存在するという確信をもつ(結果)

ここで注意すべきは、①と②のいずれが正しいと考える必要はないこと。どちらの考えも論理的に妥当であり、背立的ではないということである。

重要なのは、事物対象(自然的対象)を考えるときには、②の見方は不便であり合理的とはいえない。

しかし、ことがらや世界観については、②の見方こそ適切であるだけでなく、むしろ不可欠なのである。

たとえば、キリスト教を信仰する人間は「神が世界を創造した」という世界確信をもっており、仏教の信者は、「世界は輪廻転生する」という確信をもっている。

ここでどちらが正しいかと問うことは、「本体」(絶対的な正解)を前提にしていて、検証の可能性はどこにもなく認識論的には無意味である。

しかし、両者がなぜ異なった世界観をもつのか、と問うことには意味がある。またなぜ絶対的な答えが不可能かと問うことも有意味である。

これらの問いに誰もが納得することが、人間の認識の本質を解明することになるからである。

なぜ異なった宗教が存在し、異なった世界確信が生じるのか。こうした問いに答えるには、われわれは①の見方ではなく、必ず②の見方を取らねばならない。そのような世界経験(主観)が人々の異なった世界確信(客観確信)を構成するのかという見方こそが、これに答えを与えうるからだ。

                  『新・哲学入門』P41

竹田氏は、②の思考法で、主観ー客観の一致は、不可能でも、現象学的還元の方法よって、一切の認識を主観のうちで成立する確信と考えている。
一方、魚川氏は、事物についてもことがらや世界観についてもどちらも不可能ということです。ゴータマ・ブッダの経験と「同じ」というのは、客観的に証明するのは不可能だろうが、少なくともリンゴのような事物については、間主観的に確認することは可能だと思います。

現象学的還元の方法の詳細については、『新・哲学入門』を参照下さい。

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