仮講義「松浦寿輝の表象文化論」(Leçon 4)
「不眠」や「疲れ」が現代思想史で問題になったことがありました。すぐに引用が出来ませんが、わたしのなかでは、ブランショやレヴィナスの名前と結び付いています。さる場で、デリダもこれに触れていますね(Sens en tous sens. Autour des travaux de Jean-Luc Nancy, Galilée, 2004, p. 166)――「存在論的な疲れ」(fatigue ontologique)とか言っているわけです。
わたしも、30代半ばに近づいてきて、何となく実感できるようになってきました。なんかね、存在論的に疲れているんですよ。笑 子供のころはさ、疲れたら寝る、翌朝元気になる、みたいなサイクルなわけです。疲労が回復可能なわけですね。しかし、ある程度年を取ると――多少とも神経(症)的な生活を送っていると――そういうレベルの「疲れ」じゃないわけです。「存在論的な疲れ」なわけです――デリダの言葉を借りれば。
でも、これってまさに松浦寿輝だなと思うわけです。最初の論集『口唇論』ですね。1985年に出ています。松浦さんは54年生まれですから、だいたい30歳前後の著作です。まあ、松浦さんの「疲れ」っていうのはわたしには想像がつかない部分も多いですけどね。でも、1981年にパリで博士論文の審査を終え、帰国し、本格的に執筆活動を開始。年齢的にはアラサー。いまからみれば、華々しい経歴の前史ないしは初期にあたる時期なのでしょうが、必ずしも、何か「保証」があったわけではないでしょう。で、もう若くない。パリでの生活もいまや夢のなかでの出来事のよう…。
まあ、我々の時期よりはフランス語やその文学・思想の需要があった時代かとは思いますけどね。でも、色々な意味での「不安」な時期もあったのではないか。ましてや、あれほどの詩人ですから。簡単に社会やひとと適合できたわけでもないのかもしれない――でも、松浦さんって、結構コミュ力あるひとでもあると思いますけどね。男友達とかも多そうですし、ガールフレンドもそれなりにいたんじゃないでしょうか。でも、理解されない部分はあったでしょう。心無い言葉に傷つけられたこともあるかもしれない。あるいは、自分の言葉で他人を傷つけてしまうことに神経質になったりもしたかもしれない…。
まあ、何となく、松浦さんの詩とか読んでいて、わたしなりに「実存的精神分析」をしてみただけですけどね――サルトルですね、これは。フロイトの「無意識」の精神分析を修正し、サルトルは、いわば、「意識」の精神分析を展開するわけです。ボードレール、ジュネ、マラルメ、そしてフローベール。でも、まあ、一時期『家の馬鹿息子』に挑戦した人間として言えば、「実存的精神分析」はやめた方がいい、と思いますね。苦笑 ちょっと一言で理由は言えないですけどね。あと、そもそも、いまはフロイト流の精神分析も過去のものになってしまいましたね…。
ちなみに、松浦さんはもともとシュルレアリスト、アンドレ・ブルトンの専門家ですから、フロイトの精神分析もそれなりに勉強されたはずです。ラカンなんかも、かなり読んでいると思いますね。直接の論考はないと思いますが、随所で「ボロメオの輪」の話が出てきます――松浦さんの思考って「トポロジー的」というか、もっとべたに言えば「幾何学的」なんじゃないですかね。「地理的」といってもいいかもしれない。何にせよ、空間にかかわる認識に注目すべきところがある気がいたします…。
まあ、とにかく、松浦さんも疲れていたんでしょう。で、具体的には、『口唇論』には「ゆるやかさの練習 疲労論」(249~289ページ)という一節があります。「疲労」という日本語が使われてましたか。以下は「疲労」にしましょう。
「疲労」という実存的、存在論的、ないしは精神的かつ身体的問題が、ここでは、「ゆるやかさ」という「時間」の問題と接続されていきます――ここでもまた「時間論」ですね。まあ、確かに、松浦さんていうのは「ゆるやかなひと」ではありますね、個人的な印象では(笑)。いわゆる「頭の回転」とかはすごく早いと思いますけど、「加速」に身を任せるタイプでは全くない。このあたり、それこそ、浅田さんと比較してみてもいい、とわたしは思っているわけです――『口唇論』と『構造と力』は、実は、前提としている「知」、「エピステーメー」はかなり近いわけです。ラカンやドゥルーズについては特にそうですね。しかし、「スキゾキッズ」にあって「独身者」にないのは、おそらく、ブランショでしょう。「疲労」や「遅さ」という観点において、松浦さんは「ニューアカ」の「ネガ」を切り開きます。「夜のニューアカ」とでも言ってみましょうか。
こんなこと、わたし以外誰も言ってませんけどね(笑)。でも、例えばこれが、松浦さんによる東氏の『存在論的、郵便的』批判(『晴れのち曇りときどき読書』再録)なんかにつながってくれば、色々とみえてくるものもあるのではないかと思います――ちなみに、わたし自身はこれはちょっと判断つかないですね。松浦さんの批判はすごくよくわかる。フランス語でデリダを読んできた者なら誰でもそう思うはずです。しかし、では、デリダ的エクリチュールで「博士論文」が書けただろうか、というとそれも厳しい。東さんの全然デリダ的ではないエクリチュールだからこそ、逆説的に、デリダの「郵便的脱構築」を浮き彫りにできたともいえるわけです。
ちょっと複雑な仕方でゲーデルや柄谷が前提とされているので、いま東さんのデリダ論が読める人間って実はかなり限られていると思いますけどね。でも、しかし、世界的に見ても、少なくとも、10に入るデリダ論だとわたしは思います。はやい段階で英語にでも訳されていれば面白かったのでしょうが…。
しかし、松浦さんの批判もすごくよくわかる。結局、これはフランスのデリダと英語圏の受容の対立という話ともつながる気がするし、文学対哲学のそれともかかわってくるでしょう。(しかし、ここでも色々な「ねじれ」がある。デリダはフランスでは「哲学」ですが、アメリカでは「比較文学」で受容されます。しかし、日本での受容を考えれば、フランス留学組はむしろ文学系で、日本で研究が進めたのが哲学系でしょう。彼らの方が、英語圏の著作をよく読んでいるわけです。東さんもそうだし、高橋哲哉先生もそうですね。まあ、もちろん、個々の事例を考えれば、事態はもっと複雑だと思いますけど…。)
とにかく、「夜のニューアカ」としての松浦ということを考えてみたい。あるいは、蓮實先生のブランショ・フォビアは有名ですが、松浦さんにおいては、ブランショは大変重要な批評家・作家です――特に『口唇論』や『平面論』でしょうか。「蓮實のエピゴーネンとしての松浦」なんていう「表象」は簡単に崩せるわけです。蓮實先生のフーコーは、例えば、フローベールからくる部分もあるのでしょうが(「幻想の図書館」ですね)、松浦さんのフーコーはブランショから来ている部分もあるかもしれない――フーコーはブランショの読者でしたし、ブランショにもフーコー論があります。豊崎光一訳ですね。
今日の推薦図書は『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』(ちくま学芸文庫、2006)にでもいたしましょうか。松浦さんも編者のひとりです。上述のフローベール論は工藤庸子先生が訳されており、松浦さんはブルトン論「彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった」を訳されています。その横には、豊崎光一訳のブランショ論「外の思考」が並んでいましたか。
まあ、「夜のニューアカ」とかいいましたけど、特に初期の松浦さんは「外の思考」という感じがしますね。この辺りは、是非、『フーコーコレクション』と一緒に『口唇論』読んでください。わたしの方でもまた取り上げる可能性もありますが。
しかし、そう考えると、松浦さんのラインを引き継ぐのは、例えば、佐々木中さんあたりではないか。『夜戦と永遠』ですね。最初の版は2008年ですか。大分経ちましたね。随分話題になったんですが、いまの学生はもう知らないかもしれませんね…。
まあ、「夜のニューアカ」とか「ライン」とか書いてますけどね。何というか、そもそも「批評」みたいなのが消散してしまった気もしますけどね…。「ネット」のせいなのか、「スクリーン」のせいなのか…。
次回は、今度、「スクリーン」について考えてみましょうか。それでは、毎度まとまらず恐縮ですが、本日はここまでにいたします。
栗脇