栗脇永翔

詩と哲学のあいだ

栗脇永翔

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最近の記事

リオタール『現象学』より

「〔…〕過去把持は記憶と混同されてはならない機能である。なぜなら、過去把持はむしろ反対に、記憶の条件であるからである。過去把持を通じて、体験は異なった様相を帯びて、つまり《もはやない》というしかたで、それ自体じきじきに、私に対して《与えられ》つづける。きのう私をとらえたあの怒りは、暗黙のうちに私に対してまだ存在している。というのも、私は記憶によってその怒りをもう一度とらえ、それを一定の時点におき、それに一定の場所を占めさせ、それの動機や言いわけを発見することができるからである

    • 哲学のLite Program

      夜の、ニューアカデミズムということで(苦笑)。久しぶりにこの時間にキーボードを叩いていますけど。 一昨日くらいに、たまたまスマホを眺めていたら、佐々木中さんが久しぶりに新刊を出されるということで、注文したらすぐに届いて、拝読していたんですが。今回は「哲学入門」ということで、新鮮な感じがしましたね。表紙のイメージも美しい。副題が、ちょっとすごいですけど。 佐々木中さんっていうのは、僕らの世代の思想好き学生の、ヒーローのひとりというか、ちょっと孤高の存在みたいな感じです。

      • 佐々木中『万人のための哲学入門』より

        「個々の主体が「革命的な主体」として設定されていないのならば、革命はつねに「トップダウン」式の、独裁にしかならなくなる。それを「ボトムアップ」式の、言うなれば民主的なものにするためには、個々の主体が「再設定」されていなければならない。シラーは、この「再設定」の手続きを人間を作り出す「藝術」、「教育的なそして政治的な藝術家」による「藝術」であると言う。そして、ここまで理路を経巡ってきたわれわれからすれば、この「人間を製造」する「藝術」、すなわち「教育」は「儀礼」なのです。新しい

        • 水野和久『現象学の射程』より

          「しかし沈黙の世界がもし単なる欠如の世界であるにすぎないならば、それは言語的世界へ何ものをも持ち込むことはできないだろう。言語に先立つ領域は知覚と行動の身体的次元である。メルロ=ポンティにとって「知覚はすでに表現である」。むろん知覚が言語的表現であるというのではない。そうではなく、知覚がたんに外的対象の性質を受容することではなく、対象に対する非反省的な態度表明であるというかぎりで、知覚主体である身体はその存在そのものにおいて原初的な身振り表現であるという意味なのである。すなわ

          貫成人『真理の哲学』より②

          「〈身体図式〉は、意識的言語的制御なしに自動的に展開する過程だが、これを「習慣化された行為」という意味で「習慣」とよぶ。日常、起床して顔を洗い、電車に乗って職場や学校へと向かうとき、歯みがき粉をどれだけ歯ブラシにだすか、どの経路を通って駅へ向かうか、どのように改札口を通過するか、など、いちいち頭で考えない。身体が勝手に動いて、こうした課題は遂行されている。歩行やタイピングなどの〈身体図式〉も同様だ。一切は、わたしにとって〈習慣〉である。「わたし」という一人称の主体ではなく、身

          貫成人『真理の哲学』より②

          メルロ=ポンティ『知覚の現象学』より

          「現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず、この問いはまだまだ解決からはほど遠いのだ。現象学とは本質の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する。たとえば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが現象学とは、また同時に、本質を存在へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその〈事実性〉から出発から出発する

          メルロ=ポンティ『知覚の現象学』より

          貫成人『哲学マップ』より

          「〔…〕なにかを対象化する能動的認識活動は、つねにすでに、対象化を逃れる、受動的知の構造によって可能となる。  受動的知を足場にしながら、認識活動を営むことにおいて成立するわれわれのあり方をフッサールは志向性とよぶ。志向性とは「何ものかについての意識」であり、われわれはそのような対象との関係としてしか機能しえない。  意識と対象との関係は「つねにすでに」成立している(「事実性」)。いわゆる「図と地の関係」において、図は浮き立って見え、地はその下に入り込んでいるように知覚される

          貫成人『哲学マップ』より

          フッサール『論理学研究』より

          「われわれがこれまで究明したことから、論理学ーーここで問題になる学問論という意味でのーーは規範学であることが判明する。学問とは〈ある一定の目標に向けられ、したがってまたその目標を基準にして評価されるべき精神の創造物〉である。しかもこのことは理論にも基礎づけにも、また一般にわれわれが方法と称しているもののすべてに当てはまる。ある学問が真に学問であるかどうか、ある方法が真に方法であるかどうかは、それが自ら追求する目標に適合しているかどうかに依るのである。真の学問、妥当な学問そのも

          フッサール『論理学研究』より

          東大英語のリダクション 和文英訳(2018-3B)

          作文系のなかでも、和文英訳って難しいよね、っていうのがあって、それってやっぱり、ふたつの言語の間の「翻訳」の難しさでもあり、母語から外国語に移すことの難しさでもあると思うんですね。 で、結局、英語を日本語に直すのはまだ易しいんですね。自分の感覚で言えば、母語の方が複雑に使いこなせるから、打てる手が多いんです。他方、日本語を英語にするのは難しいですよね。これって多分、母語の方が複雑なニュアンスをとらえられるのに、言葉足らずの外国語で表現しなおさなければならないからだと思うわけ

          東大英語のリダクション 和文英訳(2018-3B)

          斎藤慶典『フッサール』より②

          「〔…〕「いま」という経験の成立ははじめから、それが「いま」でなくなることと切り離せないのである。正確に言うと、何かが失われる(もはやない=不在である)という経験の成立が、その何かが「在った」という仕方で「存在」の経験をも成り立たせるのである。これを煎じ詰めれば、「不在」の経験がすなわち、「存在」の経験だということになる。このときの「存在」とは、本来「存在した(在った)」という完了形(過去形)であることに注意しよう。完了形であるからこそ、そこに「存在」と「不在」を同時に含むこ

          斎藤慶典『フッサール』より②

          斎藤慶典『フッサール』より

          「フッサールはカントのこうした用法(認識批判の学がとるべき態度としての超越論性)を踏まえた上で、これに現象学固有の意味を重ね合わせる。現象学固有の意味とは、あらゆる「超越者」が、そこにおいてほかならぬ「超越者」として構成される最終的な基盤という意味であり、だからこそそれは「超越論的」と呼ばれて然るべきなのである。ここで「超越者」とは、対象が主観的な与えられ方を超えて、それ自体で存在するそのあり方に着目して、いわゆる「客観」を指し示すものとして使われることは先に見た。つまり「超

          斎藤慶典『フッサール』より

          フッサール現象学の詩学

          気持ちのいい天気ですね〜 最近、ようやくというか、フッサール関連の書籍をなんとなく読み連ねていまして、昔勉強したことを思い出したり、いまになって気づきがあったり、そこまで追いついていなかった、いわゆる「発生的現象学」の時期について、ちょっと興味ができたり、いろいろしているんです。 フッサールというのは、20世紀の哲学のスタイルの「現象学」というのを創始した哲学者で、わたしが関心を寄せていたサルトルやデリダも、このフッサールを、フランスで研究していた哲学者なんですね。なので

          フッサール現象学の詩学

          貫成人『経験の構造』より

          「〔…〕『受動的綜合の分析』においてフッサールは、感覚内容が「内在的統一」として構成されるのは連合原理によるとする。連合(Assoziation)とは、もともとヒュームやコンディヤックの感覚論に起源を有する概念であり、「観念連合」といった言い方で人口に膾炙している。フッサールの規定によれば、連合とは「現在[経験されているもの]が過去[に経験されたもの]を思い起こさせること」だ。はじめてかぼちゃのスープを飲んで胃痛をおこした人は、その後かぼちゃのスープを見るたびに胃痛の記憶が蘇

          貫成人『経験の構造』より

          田口茂『現象学という思考』より

          「さまざまな物が現れたとき、それらの物は互いに結びついたり、あるいは反発しあってコントラストを形成したりする。赤い円筒と青い円筒が現れたら、それらは形の点では互いに結びつくが、色の点ではコントラストを成す。逆に、赤い円筒と赤い立方体が現われたら、それらは形の点ではコントラストを形成するが、色の点では互いに結びつく。これは「受動的綜合」と呼ばれる原初的なはたらきに属する「連合」(Assoziation)の現象である。連合、すなわちアソシエーションと言っても、単に普通の意味で「連

          田口茂『現象学という思考』より

          デリダ『声と現象』より

          「構造的にも権利上も声なしにはいかなる意識も可能でない、というふうにさせているのは、ほかならぬこの普遍性なのである。声は、意-識として、普遍性の形式における〈自己のかたわらでの存在〉である。声は意識である。対話において、能記の伝播はどんな障害にも出くわさないように思われる。なぜなら、能記の伝播は、純粋な自己-触発の二つの現象学的根源を関連づけるからである。誰かに向かって話しかけることは、たしかに〈自分が話すのを聞くこと〉、自分によって聞かれることであるが、しかし、それは同時に

          デリダ『声と現象』より

          「生きるヒント」 竹内まりや『プレシャス・デイズ』を流しながら・・・

          Hello everyone, すごい雑なブログですが(笑)、数年前から昔の含めよく聴く竹内まりやさんが久しぶりにアルバムを出されて、久しぶりに新譜を買いました。ここ1週間ほど、ずっと聴いてます。 最初の曲(Brighten up your day!)に次のような一節があります: 「どんな人の言葉にも 生きるヒントが隠れてる」 この「生きるヒント」というのが、わたし的には、フィリップ・ベックさんや、村上春樹さんから学んだような、「教訓詩」の問題系に繋がってくるんですね

          「生きるヒント」 竹内まりや『プレシャス・デイズ』を流しながら・・・