仮講義「松浦寿輝の〈フーコー・ドゥルーズ・デリダ〉」(Leçon 16)

Bom dia !

それでは、はじめていきましょう。さて、日本時間では日付が変わってしまいましたが、10月13日というのはマンキーウィッツの『オール・アバウト・イヴ』(1950)のワールド・プレミアが行われた日だということです。実は、わたし、老後にマンキーウィッツ論を書きたいという密かな野心を持っていたりもします。「表象文化論」は「映画以前」である、とか言っていますが、自分自身は割に旧態依然としていて、正当な「映画研究」への憧れがあるわけですね。笑 もっとも、わたし自身は「ポスト表象文化論」と思っていますので、であれば、別に論理も破たんしていないのかもしれません。笑

マンキーウィッツで特にわたしが興味があるのは、『イヴ』もそうですが、『サデンリー・ラストサマー』の方です。テネシー・ウィリアムズですね。テネシー・ウィリアムズと言えば、先日、『ガラスの動物園』を観に行きました。なんと、フランスからイザベル・ユペールがきて、主演(というかお母さん役)を演じたわけです。圧巻の演技でした。

イザベル・ユペールと言えば(笑)、クロード・シャブロル監督の『ボヴァリー夫人』ですね。『ボヴァリー夫人』と言えば、蓮實重彦先生ですね――ちなみに、井村実名子さんは蓮實先生のマクシム・デュ・カン論『凡庸な芸術家の肖像』をマンキーウィッツの『イヴ』と比較されています。で、蓮實先生と言えば、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』なわけです。笑 ということで、「松浦寿輝の〈フーコー・ドゥルーズ・デリダ〉」を再開いたします。

Fasten your seatbelts !

さて、この間、わたしはアルトー関連の本を読んでいました。アントナン・アルトーですね。まあ、いまの若い学生さんは好んで読む対象ではないでしょうが、「表象文化論」――これは、一個の「歴史的現実」です――にとっては大変重要な存在です。1896年にマルセイユに生まれたフランスの、何と言うべきでしょうか、「詩人」というか、まあ総合的な「アーティスト」です。ちなみに、映画が生まれたのが1895年のリヨンですね。リヨン-マルセイユは割と近いです。ちょっと面白い比較文化かもしれません。

で、アルトーというのは、ある種「狂人-アーティスト」のモデルのひとりなんです。実際、精神を病んでいた部分も多分にあり、精神科に閉じ込められていた期間も長かったようです。文学というか、芸術研究においては「狂気」というのは重要ですけどね。ドイツであれば、ヘルダーリンやニーチェがいるわけです。フランスだと、ネルヴァルなんかの名前も挙がりますけど、しかし、やっぱりアルトーだと思います。あるいは、アルトー自身は画家のゴッホの狂気なんていうのにこだわっていたりします。

アルトーって色々なことをやっているんです。映画俳優なんかもしていますし、演劇の理論家でもある(これについては『演劇とその分身』という理論書があり、「残酷」という美学を提唱しています)。あるいは、初期はシュルレアリスムなんかともかかわりがあったようです。その一方で、古代ローマの皇帝ヘリオガバルスに関心をもって、図書館に籠って評伝を準備したりもするわけです。『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』(1934年)という小説がありますね。わたしの手元には多田智満子さんの訳があります(多田さんというのは面白い方ですよね。詩人でもありますが、フランス文学の訳者でもあり、ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』なんかも訳されています)。「血」とか「精子」とか、クリステヴァ風に言えば「アブジェクシオン」なんかに関わるような要素に着目しつつ、古代ローマを描き出すわけです。ちなみに、いま、わたしはスティーヴン・ハーバー『アントナン・アルトー伝 打撃と破砕』というのを読んでいます。これは、「表象」の先生だった内野儀先生が訳されています(内野先生にも、そのうち、テネシー・ウィリアムズの話なんか聞いてみたい気もしますね…)。

それで、その一方で、アルトーは画家でもあります。まあ、画家と言っても、結果的には美術史に名が残るような存在ではないのかもしれませんが、でも、結構面白いわけですね。『デッサンと肖像』という画集があって、日本語にも訳されています。わたしの手元にも、フランス語の縮約版みたいのがありますが、面白いですよ。子供の落書きみたいなのもありますが、「アール・ブリュット」なんて言われるような芸術とも通ずるものがある。あと、その辺のノートの切れ端みたいなのに描いているわけです。タバコの火で穴が開けられていたりもしており…。笑 エロチックというか、性的な主題も多いですかね。「身体」というのはキーワードですよね。あと、「顔」でしょうか。「自画像」も結構あります。「窪み」の「黒」がなかなか独特なんですよね。あと、基本モノクロですが、時々ハッとするような鮮やかなエメラルド・ブルーが出てきたりします。アルトーはジャコメッティなんかとも、同時代人ですけどね…。

アルトーのデッサンは、是非、ググってみてください。で、この画集に、ジャック・デリダが文章を寄せているわけです。Forcener le subjectileというタイトルです。で、これを訳しているのが、松浦さんという話になります。

『基底材を猛り狂わせる』というタイトルで、この論文だけみすず書房より本になっています。forcenerもsubjectileもどちらも面白い表現ですよね。forcenerという動詞は『プチ・ロワイヤル』には載っていないですね。過去分詞系forcenéが形容詞として「怒り狂った」とか「熱狂的な」という意味で紹介されています。おそらく、force(「力」)とかforcer(「強いる」)なんかとも関係があるんでしょうが――浅田彰さんの『構造と力』も思い起こしておきましょう――、ちょっと普通でない動詞が用いられているわけです。subjectileというのもやや特殊ですね。これも『プチ・ロワイヤル』みたいな基本的な辞書には載っていないですね。「基底材」と訳されていますが、端的に言えば紙というか、「表象」を下支えするようなマテリアルのことです。ある意味、「平面」であり、「スクリーン」であり、「舞台」ですよね。

デリダはこれを「コーラ」と比較していたりもします。コカ・コーラじゃないですよ。笑 この「コーラ」は、プラトンの宇宙論『ティマイオス』にでてくる「場」に関するもので、デリダには『コーラ』というプラトン論もあります。守中高明さんによる邦訳があります――また、リオにいるわたしの「プラトン・アムール」というのは、文字通り、プラトンの『ティマイオス』の専門家です。笑 プラトンの「場=コーラ」については、クリステヴァも「記号分析」の文脈で取り上げますし、日本では、京都学派の西田幾多郎が「場所」なんていう概念を提唱する際に立ち返るものでもあります。

ふと思い出しましたが、『エウパリノス』の授業の際、どこかの個所で、松浦さんが「コーラ」に言及されたんですよね。あれも、プラトンの「パスティーシュ」ですからね。確かに、ヴァレリーが念頭に置いていた可能性もある。その後、松浦さんの小説『人外』を読み、「あ、これ「コーラ」かな」と思った個所があったのですが…。ちなみに、『人外』は、いま、『現代詩手帖』で詩の形で書き直されていますね。

戻りましょう。subjectileというのは、例えばsubjectif(「主観的な」)なんていう表現とも似ていますが、sujetという表現に関わりますね。これは、「主体」「主語」「主題」なんていう意味です。以前、『黄昏客思』の「主客消失」なんていう文章を取り上げ、subjectとobjectの話をしました――英語ではsubject(サブジェクト)、フランス語ではsujet(シュジェ)ですね。sub-という接頭辞は「下に」というニュアンスです――sublime(「崇高」)なんていうのもこれに関わります。デリダは自分の本棚をsublimeと呼んでいるんですよね。サファ・ファティによる映画で、そう言っています。これは、邦訳だと『言葉を撮る』という本にDVDが付いています。デリダ入門にはいいかも知れません。

で、サファ・ファティの映画と並んで重要な伝記がブノワ・ペータースの『デリダ伝』です。これにかなり詳しくデリダとアルトーの関係が書かれています。結構分厚い本ですけどね…。苦笑 でも、小説みたいな感じで読めます。

今日はアルトー+デリダ+松浦みたいな話ですけど、アルトーはフーコーやドゥルーズにも結構言及されます。というより、この「三つ巴」が本当の意味で共有しているのはアルトーくらいかもしれませんね…。あと、クリステヴァにも有名なアルトー論「過程にある主体」(『ポリローグ』所収)があります。ブランショにもありますね。

わたし自身は熊木淳さんという、やはりリヨンに留学して詩を勉強されてきた先達の『アントナン・アルトー 自我の変容』(水声社、2014年)を読んだことがありますが、二次文献なんかはこれに網羅されているはずです。あとは、ドゥルーズのもとでアルトーを研究した宇野邦一さんの著作とか、鈴木創士さんの翻訳なんかは当然参照すべきなのでしょう――おふたりの訳で、『神の裁きと訣別するため』という著作が河出文庫に入っています。あと、本当に最近、月曜社さんから「アルトー・コレクション」というシリーズが始まりました(http://getsuyosha.jp/product/978-4-86503-140-9/)。この時代にアルトーというのはちょっと不思議な感じもしますけどね…。でも、ナイスな刊行だと思います!

わたしの先輩だと、堀切克洋さんというのがアルトー研究されてましたけどね。演劇批評なんかもやられて。でも、ある時期以降は「俳句」に行くんですよね…。「表象」というのはそういうところでもあるわけです、よくも悪くも。苦笑 小川哲さんは突然SF作家になりましたしね…。(戦後日本文学の卒論なんかも高く評価されていましたけどね。そういえば、小川さんの指導教員は松浦さんじゃなかったか…ちょっと記憶が定かじゃないですが。堀切さんはドゥ・ヴォス先生や内野先生だと思いますね。)その後、千葉雅也さんの小説が芥川賞にノミネートして、審査員に松浦さんがいて…なんか不思議な感じがしましたけどね…。

まあ、そんな感じですよ。わたしのいた頃の「表象」って。苦笑 学問的には「不良」(voyou)ばっかりでした――ちなみに、デリダにもVoyousという民主主義論がありますね。鵜飼哲さんと高橋哲哉先生の訳です。『ならず者』ですね。

「優等生」でも「不良」でもないわたしは、でも、色々みてきたわけです。このポジションも、まあ、悪いものではないですよ。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇




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