感想|映画『ザ・セル』
ザ・セル
ターセム・シン 2000年 アメリカ
砂漠の山の尾根を歩く女性。
白鳥のような白い衣装が場所に不相応である。
『ああ、ここは夢の中なんだな』と知覚出来るような音楽。
あれは何民謡的、なのだろう。
楽器には明るくないが、なんにしても過酷な大地に流れる曲ではない。
思い起こされたのはパプリカ(2006年)であった。平沢進的解釈。
(あとあとになって、なんとなくパーフェクト・ワールド(1993年)の最後のシーンも思い出した。あのレコードのシーン)
鏡代わりにしたペンダントを合図にしたところが好きだった。
欲を言えば、もう少し演出を凝ってほしかったけど。効果音はいらないと思うんだ。
冒頭、ナミビアのナミブ砂漠、でいいんだよね。
調べたら"ナミブ"とは何もない、という意味らしい。何もないがあるのよ。
なぜかNHKドキュメンタリーでナミブ大地の回を見ていたのでなんとなくピンとはきた。
グレートネイチャー ナミブの砂漠に水の奇観!
俺は人物の名前と顔を覚えるのが苦手だ。
それが海外作品となればなおさら。
いつも困る。
初め、主人公のキャサリンと水の檻にいる女性が同一人物だと思ってしまった。そのせいでキャサリンが生きながらに死んでいるものだと思い、
夢と現が入り混じった表現をかなり早いうちからしているのかな? とか勘違いをしてしまった。
そんなことはなくてストーリーはかなり王道の猟奇事件解決ものらしい。
思い起こされたのはクリミナル・マインドのシーズン10-1話『容疑者X』。
俺はこの映画を"夢の世界"、だと思って見ていた節があった。簡単に言えば、目を瞑って入っていくのだから。
しかし、夢ではなく精神世界といった方が正しいか。
その世界がね、とても『理屈で通る』気がしたから。
というのは、まず少年エドワードくんの世界はナミブ砂漠で、つまり世界遺産であり、視聴者として"理解が出来る"。
馬が彫刻のようになるのは現実世界ではありませんよという表現だけれど、逆に言えばそれ以外はちょっと変わってるなで通せる。
物理法則を無視してないってところが一つあるよね。
重力とか、表現としてのカメラ回転はあるけれど、SF空間ではない。
だから、夢というよりは記憶で、精神であると。
後半にあたるカールの精神世界もカールの生い立ちがそのまま画になったような世界であって、言ってしまえばカールという人間の法則性に溢れた世界である。
もっと、よく分からないのかもと思ったら全然理解が出来たのであった。
(インセプションだとかパプリカ的な表現の補完をするためにこの映画を見たからか、夢なのか精神世界なのかそこに固執しているのである)
そうそう、その精神世界に入るための機械が良かったね。あのスーツ。
筋繊維を模したあのスーツは、とても納得があった。
ただ筋肉なだけなのに、そこに脳と電気信号を連想させるんだよね。
筋繊維ってことは、人体の内側であること。その筋繊維が見えてしまっていること。表面を守る皮膚がないということ。
つまり、人の内というものを曝け出した状態であること。
あのスーツはそういうことなんじゃないかな。
カールの精神世界。
この映画の画の見せ方がとても絵画的で、サルバドール・ダリの風合いは言われずとも感じるところがあった。
というのはやはりあの馬(グロ注意)である。
あれはどう見ても陰茎のメタファーでしょ。
別に陰茎の話がしたいんじゃないんだけど、でもそうなるよね。
あれはさ、"部屋の中の象"だと思うんだ、個人的に。
で、それと同じ表現のように、部屋の中に馬がいる。
どうして馬なの?
カールは性に固執しているから。
俺もね、ただ馬なだけだったら別にそこまで語ることもなかったよ。でもさ、猟奇殺人犯のカールくんは、ある一シーンで股間を押さえていたわけ。そこを映したからには、そう捉えるしかないよね。
だって、馬なの。馬を触るとさ、メーターが上がっていくんだよ?
そんなのもう二重の表現でしかないじゃん。
しかもそのメーターに危険ラインがあるのがまた憎いよね。
で、その馬が"分裂"していく。
スッパリ斬られて、でも痛みは感じていない。
これは単に個人的な感情移入もある、けれど、分かる……かもな。……
……書くのはやめておこう。ヒントはチェンソーマン第二部のデンジ。
(分裂、という単語の部分についてはネットで読み漁った感想に引っ張られた表現だけれど。分裂=分裂症)
部屋の中の象。
っていうのは、暗黙の了解ってこと。
暗黙の了解ってことはつまり、見えてはいるんだよね。
男の性欲って、女と違って、見えちゃうんだよね。だから、カールは押さえたんだよね。
ってこと。
はい。以上。
精神の世界に入っていく。
脱出条件は左手の親指の付け根を強く押さえることらしい。
それはつまりもう予告をしているようなものでは? 手が使えない状況になって帰ることができないというそれ。
と思ったんだけど、ギミックをあんまりうまく使えてなかったなぁという印象。一シーンだけそれっぽいところはあったけどね。
親指の付け根なんてわざわざ不便なところに設定したんだからもう少し捻って欲しかったなぁ。
精神世界のカールに恐れを抱いて緊急離脱をするシーンも、この設定を使って一度話をリセットするための脚本的都合にしか感じなかった。まだ肉体的危機を感じる前だったしなぁ。
そういえば死んだら現実世界でも死ぬという設定、あれはちょっと納得いかなかったかもしれない。
その設定を使うならもう少し脳と神経への損傷といったところを説明してくれたらなぁと。
危険だ、と言う割には施設や機器がそれに準じていない気がするからさ。
夢、というファンタジー成分を諦めた頃から、もう少し医術的な叡智が入っていて欲しかったなぁと一視聴者としての思いはあった。
ザ・セルの、セル(檻)の部分。
水槽の、水を出す仕組みが実に拷問だと、感心すらした。
少しずつ増えるのではなく、不定期に水が噴出する仕組み。
水が少しずつ増えるよりも比にならないほど恐ろしいよ、あれは。
未来が見えないのに、死ぬということだけは突き付けられている。
人間は計算する生き物だからね。
計算とは、未来を予測する力。
たとえ死が見えていたとしても、死ぬまでの時間が計算できれば、未来が見える。そこに対する抗い方が変わる。
ゆっくり水が増えたなら、死に対する受容の、否認(恐怖)については乗り越えられたのかもしれない。
けれど、そうはならない構造。恐怖を見たいカールとしては、これほどない構造だろう。
フィナーレ。
カールの死を糧に、キャサリンは自身の精神世界にエドワードを招き入れる手法を確立していく。
これは冒頭から示唆されていた終わり方で、ベタではあるんだけど、いいよね。
世の中には、心を閉じてしまって、中には死を選んでしまう人もいる。
そういう人を救うかもしれない未来があってほしい今日この頃、特に現代。
今作の精神世界に入る装置は
パプリカ的(民間)セラピーよりも、
インセプション的情報機器よりも、
より医療的で、命に近い部分で作用するものだった。
そういったものがもっと発展してほしいと願い、また難しいことも理解した映画でした。