こだわりの〇〇とは
休日の朝、いつもの目覚ましの時間より少しだけ遅れて目を覚ます。ああまだ寝てられるな、と思いながらも気だるく起き上がり、洗濯と洗い物を済ませる。仕事終わりに家事をする気にならないことが多いので、どうしても片付けが追い付かずに物が溜まってしまう。そんな物どもを片付けるためにはこのタイミングしかないのだ。
程々に掃除を済ませた後に冷蔵庫を覗くと、朝食を切らせていることに気づいた。そういえば先日の晩酌で色々と摘んでしまっていたことを失念していた。
まぁいいや。珈琲を入れることとしよう。先日、行きつけとまではいかないまでも、ちょっと通っている珈琲店が新しいブレンドの販売を始めたということで購入していたその豆を使用する。カップはアラビアがピンと来たのでそれに決めた。
コーヒーについて、特段こだわりがある訳じゃないのだけれど、どれでもいいやと思いながら淹れる珈琲と、これを使おうという意図を織り交ぜる珈琲とでは、何か違う感じがする。少し身が引き締まるというか、身体が受け入れる体制が出来るというか、まぁそんな感じだ。得体の知らない活力が湧いて、これからの1日を何とか生きてやろうじゃあないかと玄関まで進むことが出来る。
よく「こだわりの〇〇」という文句を目にすることがある。
それは期待感を与えるフレーズだ。ちょっと良いものであったりと、自分の水準よりちょっと上のものが提供されるんじゃあないかと、頭と身体がリアクションの準備を始める。もちろん全てがその期待に叶う訳では無いかもしれないが、それもそれでまぁこんなこともあるよね、なんて笑い話に還元することも出来てしまう。
平坦な道に抑揚のある未知を装着させるのだ。付け焼き刃の凸凹道でも構わない。その揺れがまたアトラクションじみた未知に繋がるかもしれない。
なんてことを考えさせてくれるコメダ珈琲店。いつもお世話になっております。
〆。