120.その打席に立つまでは、全員が評論家
Twitterでは文字数足りなかった!
とても久方ぶりの執筆です。
Twitterに書こうと思ったのですが、文字数が足らず久しぶりにnoteを立ち上げました。
以前100日連続投稿をしていたころが懐かしいです(おかげでタイピングが早くなりました)。
つい先日の10/29に、弊社で初めての”マルシェ”を開催し、1日で300名近くの方に来ていただきました。
起こしいただいた方々、ありがとうございました。
詳しくは私や弊社のTwitter等で公開していますので、ぜひご覧ください。
楽観視は観戦者だからこそ
また同時並行で、現在会社内の基幹システムを31年ぶりに更新するということで、マスターデータの作成業務に邁進している今日この頃です。
大学・大学院の時の研究が膨大なデータの統計や重回帰分析だったので、Excelの資料作成には自信があったのですが、今ものすごく苦労しています、、、。
この案内にもあるように弊社の商品はすさまじいかけ合わせの量があり、商品点数は理論値で∞、過去に取り扱った総商品点数が焼く20万点、マスタ登録に向けては今回約1万5千点まで削りました。
編集作業前の私は、「商品点数は多いけど、別に特に問題ないだろう。修正箇所があるとはいえベースデータも一応社内にあるし。」くらいの気持ちでした。
ところが蓋を開けてみたら、ベースデータはまず使えるようにするのに時間がかかり、また社内の商品のコードと名前の間の規則性があったりなかったりといった状態でした。(特に規則性なく同一セル内に情報が格納されているのには応えました)
世の中観戦者だらけ
こんな作業を続けている中で、息抜きにMicrosoft edge内のニュースをざーっと見ていて気付いたことがあります。
それは「その内容をしたことがない人の意見って、本当に中身がないものが多いな」ということです。
リアクションやコメントもしかりですが、意見を言っている系の記事の内容もそれが言えるものが散見されます(例えば誰かの事業・政治方針に対して等)。
その事業を、作業を、パフォーマンスを実際にしている人には、様々な意見が入りますし、入ってしかるべきです。それがいわゆる普通と異なるものであればなおさらでしょう。
ある意味普通と異なること(普通の定義って何なのかわかりませんが)をする人は、ある程度その意見を受けることを覚悟する必要があるでしょう。
時には味方と思っていた人にも刺されることもあるでしょう。
ただ、その意見の内容の大半は、特に当事者が求めていない中で発せられた意見は、当事者にとって本当に意味がないものが多いなと思います。
なぜなら、当事者にならないと見えない景色があるからです。
将棋や麻雀でもそうですが、実際の打ち手の視界と、後ろから見ている人の視界は全く異なるといえばイメージがわきやすいかもしれません。
当事者と観戦者の違い
私が考える当事者と観戦者との違いは大きく2つあります
1つは、当事者には責任と覚悟がありません。
責任と覚悟、場合によってはリスクを負って当事者は動いています。
もちろんのことですがそれらがあるのとないのとでは、必ず人間の判断は変わります。
それらがない状態での”正論”こそが、いわゆる”机上の空論”なのだと最近感じています。
だから私は、正論とはそれら抽象的な要素まで加味して初めて正論になるのだと考えています。
もう1つは、当事者にはその瞬間までのストーリーが頭の中にあるということです。
往々にして、観戦者が意見を言うシチュエーションは、判断を迫られた時や、物事が成就又は失敗した時です。
その際に、その時に見えている景色だけで盤面を判断してしまいます。
それが意味の薄い意見を生んでしまいます。
その自信や知識が観戦者たらしめる
また意見を言う人は、全員がではありませんがその事象について経験や見識が多少ある人でしょう。
もしくは、やったことないだけで自分はそれをできる、と確信しているか。
”わかる”と”できる”は違うとよく言いますが、他人がやっていることも当て嵌まるとおもいます。
ちなみに、当事者が望んで意見を求めた場合もその相手方は上記状態と同じになっていますが、「わざわざ自分が聞こうと思った理由がある人」になるので、別の尺度で語られるべきだと思います。
今回私がデータベース編集を見誤ったのは、他人のことではないので今言った条件にピッタリ当て嵌まるわけではないかもしれませんが、当事者になる前だったからなのだと思います。
偉そうなことを書きましたが、私自身人に対しての意見の出し方には、改めて気を付けていきたいです。
最近緩んできているので、、、。
この記事はある意味自戒です。
今日の内容も皆さんにとって何か有益であれば幸いです。