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教員1年目、適応障害になった⑥

前回の記事はこちらからご覧ください。

(1)大学教授に会いに行った

病休期間中に「誰かに助けて欲しい」と思ったとき、連絡先を見ながら「こんなこと言ったら、困らせてしまうかな…」と葛藤し、なかなか誰かに「助けて」を伝えることができませんでした。

それでも「誰かに助けて欲しい」と思い、唯一連絡を取ることができたのが大学4年生のときにお世話になった教授でした。この教授は、教員採用試験に合格して進路を迷った際に、私の背中を強く推してくれた教授でした。私が尊敬している大好きな教授です。

その教授と連絡を取り、直接研究室に伺い、4月からの学校での勤務状況を全て伝えました。

↓4月からの私の立場はこちらから…

すると、教授は

「あまりにも環境が悪すぎる。初任1年目、教員採用試験で中学社会で受かったにも関わらず、多くの免許外(専門外)の授業と特別支援学級を受け持つのはおかしい。教科で採用されたのだから、教育委員会や学校は最初に教科の専門性を育てるようにしないといけないのに、この配置はおかしい。そして、モンスターペアレントの子どもと関わらざるを得ない状況にした管理職もおかしい。あなたは誰もやりたがらない特別支援学級を先輩方に押し付けられた。誰がどうやっても、適応障害になるのは当たり前だ。あなたは悪くない。職場が悪い。」

と管理職や教育委員会、職場に対して怒りをぶつけてくれました。私は怒りをむき出しにして、驚きのあまり開いた口が塞がっていない教授を初めて見ました。

この教授とゼミ教官と話して、自分の置かれていた環境や働き方が異常であったことが分かりました。働き始めてから7カ月ほど経って、勤務校の異常さを初めて知りました。

適応障害になってから、医師や校長から「頑張りすぎが良くない」と言われ、私はずっと自分のことを責め続けていました。しかし、お世話になった大学教授に会ってから「私だけが悪いわけではなく、置かれた環境も悪かったのか」と考えを改めることができました。

教授と会って、職場の異常さが分かってから、私はみるみる元気になっていきました。この回復っぷりは、私自身もびっくりしました。

(2)教授からの言葉を胸に秘めて

適応障害になってから、私は教員を近いうちにやめようと考えていました。

私は、

「社会教育主事になって、社会教育に携わりたい」
「大学院への進学して、もっと勉強したい」
「いつかは大学教授になってみたい」

と今の「教員」という職業から逃れる夢をどんどん膨らませていました。

その話も教授にしました。その教授は、「その夢素敵だね。大学院でも待っているよ~」と私の背中を押しつつ、

「でも、私はあなたが、たくさん頑張って、ひたむきに勉強して、後輩にもしっかり指導してくれて、分からないことをどんどん突き詰める姿を見てきた。卒業論文発表会のときも本当に良かった。そんなあなたが、教科指導の面白さや楽しさを知らないで、教員を辞めるのは歯がゆい思いでいっぱい。今のあなたが見ている世界は、異常な世界で教員の全ての姿ではないよ。」

と温かい言葉を掛けて下さりました。この言葉を聞いて、私は今すぐに教員を辞めるのではなく、教科指導の経験をしてから教員を辞めようと思いました。

この言葉は、業務を減らしながらの時間短縮勤務を開始した現在も胸に秘めています。

この言葉が無かったら、noteに投稿している私の姿もきっとないと思います。私は後ろに引きずられるのではなく、少しずつ前に進み始めました。


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