陸軍中野学校「中野は語らず」は本当か?
歳の分からない先生
小学校六年生の秋のことです。
当時の担任はS先生。ベテランの先生で、顔立ちは日焼けして皺っぽく、目が細い先生でした。私には教員というより長年畑仕事をしていた人のように見えました。
髪は濃くて若々しいのに、顔立ちは年配風てせした。先生がおいくつなのか、私には見当もつきません。先生の皺の深い顔は、笑顔を浮かべているのか地のお顔なのかよくわかりません。
とにかく、いつも先生は、授業中ほとんど表情を変えず、淡々と講義を進めます。何か起こっても、動じない風でした。
低く渋い声で、講義をされる方でした。
戦争体験を語る
社会科の時間に、ふと先生は、自らの戦争体験を語り始めました。
今まで教科書に沿った授業ばかりでしたので、教室の皆は静まり返りました。歴史の時間だったかと思います。
私も、何だろうかと、先生を見つめました。
「中国人と日本人は、朝の顔の洗い方が違うんだ。先生はね、戦争中、中国でスパイをしていた。中国人になりすましていたんだけど、でも、朝にね、この顔の洗い方で、日本人のスパイだと、ばれちゃったんだね。
先生は中国の軍隊に捕まって、結局、処刑されることになったんだ。でも処刑場に連れて行かれる途中で、逃げだしてね、茂みの中に飛び込んだんだ。その茂みというのは薔薇のように棘だらけで、追跡してくる兵隊も『まさか、こんなところには、(棘が痛いから)いないだろう』と、通り過ぎてしまったんだ。兵隊が他の所に探しに行って、先生は助かったんだ」
先生の話は、これで終わりです。
教室のみんなは、怪訝な顔で、反応はありませんでした。
わたしも、棘だらけの茂みって、どんな茂みだろうと思っただけでした。 その後、私は先生の話を思い出すことはありませんでした。
先生の話には裏がある
後年、私は陸軍中野学校に関する著作を読んでいるうちに、ふと、先生の話を思い出しました。
どうみて中野学校出身者のような気がしてきました。
そこで先生の話を分析してみました。
1 先生は、『陸軍中野学校』とは、一言もおっしゃりませんでした。したがって、特務機関の仕事をしても、別の経歴の可能性があります。しかし、「中野は語らず」であるのなら、かえって本物のようにも思えます。
2 先生は、捕虜になったことをまったく『恥と考えていない』ようでした。先生は世間話でもしているような普段の話し方だったのです。
3 先生は、当時どのような任務に就いていたのか。一言も語ってはいません。スパイ活動の目的は何か。役割は何か。まさに「語らず」です。感情を交えないあっさりした話の終わり方が、かえって私には気にかかります。
4 先生は、どんな拷問を受けたのか。どのようにして耐えたのか。小学生には刺激が強すぎるためか一切触れていません。拷問で自白したのか、しなかったのか。先生の他人事のような話し方からは、わかりませんでした。
5 先生は、処刑場に連行される間、縄で拘束されていたはずです。常人では脱出は不可能です。中国軍だって、日本人スパイの対する警戒は厳重だったはずです。そんな中で、先生は拘束を外し、監視の目を盗んで車から飛び降りたのでしょう。先生は脱出の方法を語っていませんが、これはプロの技としか言いようがありません。
6 先生の逃亡の仕方も、尋常ではありません。敵の裏をかいたのです。事前訓練を受けていたのか、とっさの機転だったのか、冷静沈着であったのは間違いありませんも。このいざとうときの対応力が、追いつめられ心身の消耗した状況下で発揮されたのは、驚異的なことです。先生の話しに、成功を誇るような響きはありませんでした。
7 先生は、脱出後の話を、一切されませんでした。逮捕前のスパイ活動の任務同様に、特務機関に復帰したときのことを語ってはいません。復帰すれば、当然中国軍の内情を当局に伝えたことでしょう。本物のスパイなら、これも任務のうちです。極秘任務のひとつであるとともに、スパイにとっては、当たり前のことなのかもしれません。
陸軍中野学校出身と確信す
ここまで考えたとき、私は先生が陸軍中野学校の出身者だろうと確信しました。
①任務を語らぬ守秘義務の厳守
②捕虜を恥とせず
③拷問に堪える訓練
④忍術等で関節を外して拘束を外し、脱出する技術
⑤逃亡の方策
⑥捕虜から復帰するのも任務うちという自覚
一つ一つが符合します。
単にスパイ活動だけなら、色々な立場やキャリアから、諜報活動に関わった人はいたでしょう。
ただ体系だった特殊訓練と教育を受けた中野学校出身者の特性が、先生の限られた話には充分伺えるように思えるのです。
国立国会図書館で調査
そこで、国立国会図書館に行くことにしました。
陸軍中野学校の卒業生名簿である『中野校友会』を閲覧しに行ったのです。私は国会図書館で、一人一人の卒業生の名前を確認していきました。
先生と氏名の一致した人は、いませんでした。
おかしい。絶対にいるはずだ。
ふと小学生の時に母から聞いたことを思い出しました。S先生は入り婿して、姓が変わっていると。
つい姓を中心に名簿を見ていたようです。
私は改めて、名に絞り、探してみました。
ついに見つけました。
中期ごろの卒業生の多い時期に、その名があったのです。ほかに同名の人物はおりませんでした。
先生の無表情の裏に秘めた思い
それにしても、先生はあの授業で何を伝えたかったのか。
先生は最小限のことしか語っていません。わかりもしない児童に、先生は上辺の事実を、ほんの少ししか語ったにすぎません。
社会科の教科書の歴史部分で、授業中に、そもそも『陸軍中野学校』のことや、スパイ活動、処刑のことなどを語るでしょうか。小学生では、ついていけないのではないでしょうか。
ベテランの先生ですから、そんなことは百も承知だったのではないか。それでも語ろうとしたこと。先生は「これも戦争の現実の一つだよ」と、おっしゃりたかったのかもしれません。
「中野は語らず」という精神から、任務を死ぬまで秘匿するにしても、子供たちに、せめてこれだけは伝えたいという思いが、裏にあったのかもしれません。
任務達成の使命感以上に、『何が何でも生き延びてやる』という不屈の精神を。
先生に叱られる
先生が一度だけ感情を露わにしたことがあります。
それは私の一言が原因でした。
当時、公共心の未熟な好奇心の塊だった私が、授業中に口を滑らせたことがありました。
よく晴れた日のことでした。お昼前のことです。
ある授業で、私は先生の話など聞きもせず、窓の外を見ていました。教室は四階だったと思います。窓際のまん中に私の席はありました。
校庭には誰もいません。
校庭の先には住宅が密集して、さらにその向こうに国鉄の中央線が走っていました。
その住宅のまん中から、黒煙が昇っていました。
風もなかったので、黒煙は太い柱となって吹きあがり、徐々に広がって青空へと昇っていきます。
「火事だあ」
私の大声に、教室の皆は、わっと窓辺に集まりました。
授業なんかそっちのけ。私の周りに四十人ほどの児童が、おしくら饅頭の状態になってしまいました。
私はなんだか楽しくなってしまいました。
私は火事を指さしました。
「おもしれえ」
教室に、先生の怒声が響き渡りました。
「貴様、何を言うか」
まさに軍人の声でした。