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あの人について書こうとすれば


「あの人について書こう」

と思い立ってから、手が止まったままいくつかの季節が過ぎている。



───あの人について書こう。

あの人はコーヒーが飲めない。お酒にも強くない。
本は読まないし、音楽にも詳しくない。
映画も観なければ、詩集を買ったこともない。
タバコを吸いたいとも思わないし、動物を飼いたいと思ったこともきっとない。
走ることは嫌いで、夏の日差しを鬱陶しがる。
人と語り合うことは少なく、汚い路地に趣をみいだすこともない。

そしてこれらは全部、私の大好きなことだ。


私たちはよく一緒に旅をした。

あの人と反対に、朝のコーヒーは欠かせず夜のお酒を楽しみにアクセルを踏むような私には、きっともっと相応しい旅の伴侶がいたのかもしれない。
それでも不思議なことに、あの人と旅をしながら飲むコーヒーとお酒がいちばん美味しいと思った。

それが恋であったかどうかは、今となってはもうどうでもいいことだと思う。

日本海の波立った青、遅い朝ごはんのクロワッサン、車中に流れる名前の思い出せない曲、一定のリズムで現れては消えていく街灯の光。
なんでもよかった。あの人といるということだけで、その景色は意味を持つ。

その意味を考え続けることだけで、冬になり、春が来て、夏が去った。
そこに私が求める意味はないと分かるまでに、それが何度も繰り返された。



いつかの夏だった。
一度だけ、あの人が私の前で泣いたことがある。
なぜだか理由は思い出せない。
きっと例によって私が困らせたのだろう。

あの人が去った後、私はしばらく汚い夜の街を一人彷徨ってから、てきとうな電柱にもたれてしゃがんだ。
見上げると、明るすぎるネオンにかき消されるようにして、小さな半月がその居場所を探していた。

自分も泣いていたことに、少し経ってから気がついた。


好きなもの。
短くなった鉛筆、夏の訪れを知らせる湿った風の匂い、狭いベランダに反響するメロディー。

嫌いなもの。
満員電車の水曜日、思い出せない歌の名前、泣いたあの人に私がかけた言葉。

分からないこと。
あの人が本当に好きだったもの。


「あの人について書こう」

書こうとすればするほど、私はあの人を忘れていくような気がする。
ここにあるのは、まとまりのない私の記憶と行き場を失った私の感情だけだ。いつも私、私、私だけだ。

せめて、と思う。
せめて、ふたり共に見たあの遠い景色たちが、今はすべてなくなっていればいい。跡形もなく。

そうすれば、私は今度こそあの人を失うことができる。

失ってはじめて、また出会うことができる。気がしている。

何度目かの夏がまた過ぎて、深い青がカーテンを揺らす。

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