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001. 高架下、街灯、25時。

4年前の7月、深夜の高架下。

道中で買った缶ビールが2つ。古いオレンジ色の街灯を頼りに、僕たちは25時の夜道をとぼとぼと歩いていた。繁華街の喧騒もいつしか静寂に変わり、コンビニの明かりとラブホテルの安っぽいネオンが、列をなして暗闇の中にぽつぽつと灯っているだけだった。

正直、ベタ過ぎるシチュエーションだな、と自分でも思っていた。きのこ帝国じゃあるまいし、そのうち「クロノスタシスって知ってる?」って聞かれるんじゃないか、と勘繰っていたけれど、そんなことがあるはずもなく、彼女と交わすたわいもない会話とともに、ゆるりと夜は更けていった。

終電もとうに過ぎた深夜、付き合ってもいない女性と、2人で高架下を歩いている。

何でこうなったんだっけ。



新大久保の韓国系居酒屋で開かれた、アルバイト先の飲み会での出来事だった。同期の1人が前週末に参加を呼びかけ、都合の良い人だけで開いた会だったから、全員が一堂に会すような大きい集まりではなかった。

二次会のカラオケ店を後にすると、いつの間にか1人だけ終電を逃していたことに気づき、各々が家路に着く中、僕だけが路頭に迷っていた。

その時、たまたま居合わせていた先輩 ── もとい、隣で歩いている彼女が「うちで良いなら」と、歩いて1時間ほどかかる高円寺の自宅まで案内してくれたのだった。

僕より1つ上の、肩まで伸ばした地色の茶髪がよく似合う女性だった。華奢な見た目とは裏腹に、夏休みに1人でインドへ旅に出るほどにアクティブで、要領も面倒見も良い彼女は、バイト先でもフロアリーダーを任されていた。だから当時の僕にとっては「カッコいい先輩」という、一人間としての尊敬や憧れの対象に近い存在だった。

いや、今思えば、そんな尊敬や憧れを超えた特別な感情を抱いていたんだと思う。



道中の1時間半、何を話していたかと言えば、総じて中身の無い内容だった。職場の休憩中によく話していたからある程度お互いのことは知っていたし、新しく知る話題の方が少ない気は、最初からしていた。

好きなバンドを聞かれて、当時まだ駆け出しだった羊文学の名前を出したら、最近フルアルバム出したよね、と目の色を変えて食いついてきてくれたのを今でも憶えている。彼女もまた、羊文学のファンだった。

他にもお互いが行った旅の話とか、それぞれの大学での出来事とか、取るに足らない内容の掛け合いがそこでは繰り広げられていた(きのこ帝国は結局話題に上がってこなかった)。

── 私、バイト辞めるかも知れないんだよね。

道中に立ち寄った公園の喫煙所。キャメルの甘い煙を燻らせながら、突然彼女はそう言った。

おもむろに顔を上げる。彼女の口元から立つ白煙が、街灯の明かりで白んだ夜空にふわりと広がる様子を、しばらく目で追っていた。

数秒の沈黙が流れる。

── そうなんですか。

寂しくなりますね、と僕はそう返した。今思えば明らかにそっけない返事だったし、彼女自身ももしかすると引き止めて欲しかったのかな、とも思う。僕自身も驚いていなかった訳ではなく、平静を装っての一言だった。
ただ、他分野との両立が出来ない人とは考えにくかったし、致し方ない事情があっての決断なのかな、と敢えて理由については触れなかった。

たまにはバイト先にも遊びに来て下さいよ、と僕は付け加えた。○○君(僕の名前)が奢ってくれるなら、と返され、閉口した僕の様子が可笑しかったらしく、彼女は悪戯っぽく微笑った。

やがて公園を後にし、アパートに着いた僕たちは、酔いに任せて一夜だけ体を重ねる、ということもなければ、ましてや付き合う、なんてこともなく、6畳ほどの部屋に置かれたローテーブルを挟んで、また何事もなかったかのように談笑を再開した。

たわいもない会話は、やがて職場の人間に対する愚痴の言い合いになった。○○先輩のあの感じちょっと鼻につくよねー、とか。社員さんも分かってるのに見て見ぬ振りとか酷いですよね、とか。

堰を切ったように愚痴をこぼす彼女は、何か吹っ切れたように饒舌だった。その時、何となく彼女の本当の素顔を見れたような気がした。

話が尽きる頃には夜が明け始めたので、僕は先輩宅を後にし、始発の電車に揺られながら帰路に着いた。相当疲労が溜まっていたらしく、自宅に到着するなり、ベッドに倒れるように眠り込んだ。

その日唯一の授業だった3限には、当たり前のように遅刻した。

そして翌月。彼女はあの日の予告通りアルバイト先を辞め、残された僕自身も、同年度末に職場を辞めた。

それ以降、僕自身に新しく交際相手ができたこともあり、彼女とはどことなく疎遠になってしまい、以来一度も連絡を取っていない。

バイトを辞めたのは、居心地が悪くなった訳では無かった。ただ、彼女と2人で歩いたあの1時間半が、同時期に経験したどの瞬間よりも楽しく、儚く、愛おしかった。

それ以上の思い出は、何も望まなかったから。



きっと僕たちが最期を迎える時に真っ先に思い出すのは、結婚とか出産とか、この先起こるであろう人生の一大イベントではなくて、たわいもない日常のワンシーンなんだと思う。

深夜の高架下を歩いたあの日のように。

夏の夜に消えた、もう届かない淡い想いのように。


001. 高架下、街灯、25時。

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