障害受容



障害を抱えた人の多くが障害を発症したことに対する劣等意識を拭えずにいる。これは“病気の私”として生活しているからである。“私”として生活する人は障害自体を受容し、パーソナルの一部として受け入れることができるかどうかという点が最も重要なのである。例えば、障害受容した場合と、そうでない場合を考えた際にやはり障害を受容する方が望ましい。


障害を受容した“私”になった場合の生活では本人はもちろんであるが、障害当事者の親族や友人にもいい影響を与える要素となりうる。ちなみに本人が障害を受容するというのは言葉で言うほど、生半可な作業ではない。相当なエネルギーを消費するため、心理的な負荷が大きい。


障害自体が自身の劣等意識を形成するに至った要因となるため、その劣等意識を払拭するためには障害受容だけでなくエリクソンの漸成的発達理論に基づくと青年期の課題以前の心理的危機を乗り越える作業も必要になってくるからである。それが障害受容とどのように関係してくるかと言うと、過去の体験そのものにある。


それぞれの固有の体験である。いじめを受けた。親に虐待された。性的な暴行を受けた。生活困窮であった。人には他にも多くのつらい過去というものがある。それらの過去を受容できないでいると、その過去に囚われてしまう。障害受容とは過去の受容そのものなのである。


先天性の障害なのか、後天性の障害なのかによって解釈が異なるわけではない。人間が心理的に健康に生活するためには過去の体験がつらいものであった場合、やはり受容する事が重要でありその過去に囚われていると成長することは出来ない。退行の欲求にのまれてしまうのである。


いじめを受けた人はいじめの体験に対して、自分は何故いじめを受けたのか?ということを探るよりも、いじめをする人は何故人をいじめるのか?という、いじめる側の心理について学ぶ方がいじめの体験を受容しやすい。


その点について少し掘り下げるといじめる人間は、相手を選んでいじめるということが分かっている。自分に対して反撃しない人を選んでいじめる。それは学校の教室にしろ、職場にしろ、その環境の中で一番優しい人をいじめるのである。誰だって相手を責めたり、暴力をふるった際にやり返されることが分かっていたら人をいじめない。いじめる人はそれを心得ている。だから現にいじめを受けている人はやり返すことができず自殺に追い込まれたり、精神疾患を発症したりする。


他にも親に虐待を受けたのなら、自分が何故親に愛されないのか?という事もよりも、自分の親は何故、虐待をするような親なのか?という心理について考えれば自分の無価値観に苦しむこともない。虐待を行う親も実の親に愛されないで育ったケースがほとんどである。これを不教の連鎖と呼ぶ。


もし自分の親に暴力を受けたり、心理的な虐待を受けた時は自分の価値を疑ってはいけない。自分の親のパーソナルを考える方が望ましい。ここで冷静に考えてみれば、そもそもいじめる人間も虐待を行う人間も心理的に見れば明らかに不健康なのである。それはそのような状態に陥るまで、劣等感を強化してしまったという過程があるからである。


人をいじめたり、虐待を行う事がどのように劣等感と結びつくのか?という事について考えると、それだけ自分と他者を比較しているから自分よりも下だと思う対象の相手をいじめたり虐待するのである。誰でも人と自分が対等な立場で、平等な関係だと感じればいじめたり虐待を行ったりしない。それは自分の無価値観や劣等感に苛まれる必要がなくなるからである。


これらの例を基にすれば人間が劣等感を恐れるべき理由の一つであることが理解できると思う。劣等感の起源は必ず過去にある。後天性の精神疾患を発症した場合、精神疾患を発症するほどの心身への負荷が大きかったから発症したのかもしれないと考えれば、理解が進む。もっと言うと、それだけの負荷があったにも関わらず、その負荷が目に見えないせいで本人も周囲の人間も誤った対処をしたために、首が回らなくなるほどの障害を発症したのかもしれない。


これが自分を知るという事なのである。自分自身に起きたことを深く考察すれば自分自身の障害や過去に対する理解が深まる。それが障害やつらい過去を受容する事に紐づくのである。



執筆:一青 成

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