「なんかさみしい」が生まれる場所とは?③
前項では、「なんかさみしい」という気持ちは永遠がもたらしているということについてお話しました。この項では、永遠とは具体的に何なのかについてお話します。
まず、ちょっとむずかしい(?)お話から。
永遠とはキルケゴールが頻繁に使った言葉で、いうなれば「神ではないが神につながっているなにか」(中島義道氏の解釈)です。
その永遠を、フロイトは「死の欲動」と言い表しました。ラカンという精神分析家にして哲学者は「反復強迫」と言い表しました。わたしたちの心の中には自分の意思でコントロールできない何者か「X」が棲みついており、それをキルケゴールは永遠と呼び、フロイトは「死の欲動」と呼び、ラカンは「反復強迫」と呼んだのです。
簡単にいえば、自分の意思でコントロールできないもの「X」に、わたしたちは操られているということ。たとえば「片思いの彼に今日こそは告白しよう」と心に誓っても告白できないのは、その存在者「X」のせいであり、あなたが意志薄弱だからでもなければ、あなたがネクラだからでもないのです。
あるいは、あなたが中学も高校も大学も就職もすべて、「2番目に希望したところ」にしか入れなかったのは、あなたの努力不足が原因なのではなく、謎の存在者「X」が「そうさせたから」です。
この謎の存在者「X」を夏目漱石は『こころ』のなかで「不可思議な恐ろしい力」と呼んでいます。
ひとりの女性を、同時に、2人の男が好きになった結果、「先生」がその女性をゲットすることに成功します。それを知った「Kくん」は自殺します。その後、「先生」は「不可思議な恐ろしい力」に「お前はなにをする資格ももたない男だ」と言われます(というか、言われているような気になります)。
つまり、べき論と永遠が「先生」のなかで(これまで以上に)葛藤するようになるのです。もっとしっかり働いて生活費を得なければ、と「先生」が固く心に誓うたびに「不可思議な恐ろしい力」は「お前にその資格はない」「お前な無能でバカなやつだ」などと言うのです。今でいう「自責的で自己肯定感が低い状態」です。
そんなウツっぽい状態を漱石は「牢屋」と表現しています。とりとめのないものと現実的なものが心のなかで葛藤する状態を経験したことのある人は「牢屋」のくるしさがよく理解できると思います。ようするに、どこかに行きたくても行けない、その「見えない鎖」を解く術すらわからない状態。だから「先生」は、最終的に「死ぬしかない」と思うのです。
これら一連のことを漱石は、「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」状態と書いています。ようするに「なんかさみしい」が『こころ』のテーマなのです。
「なんかさみしい」は永遠がもたらす気持ちです。すなわち、謎の存在者「X」がもたらす気持ちです。言語化不可能な気持ちがもたらす気持ちです。つまり、どれだけ意思を強くもって「今日も明るく元気に!」なんて言ったところで、そんなものは何の役にも立たないのです。なぜかはわからないけれど結果としてそうなったということをわたしたちにさせるものが永遠なのです。
なぜかわからないけれどカッとなって子どもに八つ当たりしてしまった?
あ、それ、永遠のしわざです。
なぜかわからないけれど、恋人に「別れよう」と口走ってしまった?
あ、それも永遠のしわざです。
なぜかわからないけれど、酔っぱらって電車内で女子のケツを揉んでしまった?
あ、それも永遠のしわざです。
世間では酒に酔っていた痴漢に対して、酒を飲んだことを考慮に入れて刑罰を決定すべきか否かという議論がときになされますが、ケツを揉みたくなるまで酒を飲んだのは本人の意思でありつつも、本人の心のなかの存在者「X」、すなわち御しがたいアイツ、すなわち永遠のせいです。
しかしだからといって、
「いやー、なんかさみしくなってケツ触ったんでしょ? 無罪、無罪!」
なんてことを言う裁判官はいません。法律の世界は「すべてが言葉」だから、永遠という完全に言語化不可能なものは捨象されるのです。
※参考
キルケゴール・S『死に至る病』鈴木祐丞訳(講談社)2017
哲学塾カントにおける中島義道先生の通信教育テキスト
哲学塾カントにおける福田肇先生のご講義
ひとみしょう『希望を生みだす方法』(玄文社)2022
ひとみしょう『自分を愛する方法』(玄文社)2020